廃藩置県の日とは?由来や歴史を解説【7月14日】

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廃藩置県の日とは明治4年(1871年)7月14日に藩を廃止して県を置く詔書が発表されたことを記念する日なんです。

この記事を読めば廃藩置県が起きた背景やなぜ7月14日なのか、そして薩摩や長州の思惑まで、けっこう深いところまでわかると思います。

学校の授業でちらっと聞いた記憶はあるけど詳しい経緯までは覚えていない…という方、意外と多いんじゃないでしょうか。

なんとなく「藩がなくなって県になった」くらいの理解で止まっている人に向けて、なるべく分かりやすくまとめてみました。

目次

廃藩置県の日とはいつ何が起きたのか

まずは基本情報から整理していきますね。廃藩置県の日がいつで、その日に具体的に何が起こったのかを見ていきましょう。

明治4年7月14日という日付の意味

廃藩置県の日は毎年7月14日に定められていて、これは1871年に実際に詔書が出された日をそのまま採用したものです。

ただ、当時使われていたのは旧暦ので、新暦に直すと1871年8月29日にあたるんですよね。

ちなみに、記念日として現在使われている日付は旧暦の7月14日をそのまま新暦の月日に当てはめたものなので、厳密な「同じ日」とは言えない部分もあるかもしれません。

この辺りは記念日にまつわるちょっと面白い雑学だなと個人的には思っています。

詔書が出されたその日の様子

7月14日の午後2時、東京にいた知藩事56名が皇居に集められて、天皇から廃藩置県の詔が直接告げられました。

この瞬間に日本全国からいわゆる「藩」という概念が消え去ったわけです。

同じ日には鳥取藩や尾張藩、熊本藩、徳島藩の知藩事にもすでに廃藩の勅語が下されていて、これらの藩はもともと自主的に廃藩を申請していたところでした。

わずか一日でおよそ700年続いた武家政権の枠組みが名実ともに終わったというのは、ちょっと驚くくらいのスピード感ですよね。

廃藩置県が行われた由来と背景

廃藩置県がなぜ起きたのか、その裏側にはけっこう複雑な政治的な駆け引きがあったんです。このセクションでは詔書に至るまでの経緯を見ていきます。

版籍奉還では不十分だった理由

廃藩置県の2年前、1869年に版籍奉還という改革がすでに行われていました。

これは藩主が領地(版)と領民(籍)を朝廷に返上する制度なんですが実際には藩主がそのまま知藩事に任命されて統治を続けていたので、実態としてはあまり変わっていなかったんですよね。

要するに、名目上は政府のものになったけど現場の権力構造は江戸時代とほぼ同じだったということです。この中途半端さが、結局もう一段階の改革を必要とした理由になっています。

薩長主導のクーデター的な計画だった

廃藩置県は多くの藩が合意して進めた民主的な改革というより、薩摩と長州出身のごく一部の高官による急な計画だったという側面が強いんです。

1871年7月初め、長州出身の野村靖と鳥尾小弥太が山県有朋に廃藩の計画を告げて、それから井上馨、木戸孝允と、わずか数日で説得が進んでいったと記録されています。

政府の実力者だった三条実美と岩倉具視に計画が知らされたのは決行のたった2日前だったというのも、なかなか驚きのエピソードだなと思いました。

西郷隆盛のあっけない同意

薩摩藩をまとめる西郷隆盛が廃藩に同意するかどうかは最大の関門だったと言われています。

ですが山県有朋が話を切り出すと、西郷は「それは宜しかろう」とだけ答えて、あまりに簡単に同意したそうなんです。

歴史学者の見解では、西郷自身が鹿児島藩だけでは膨大な士族を支えきれないという限界をすでに感じていたためではないかと分析されています。

この辺りは推測を含む学術的な見立てなので断定的な事実というより解釈のひとつとして捉えておいた方がいいかもしれません。

廃藩置県で日本はどう変わったのか

詔書が出た後、実際に日本の行政体制はどのように変化したのか。ここでは具体的な数字を交えながら見ていきますね。

藩から県への変化と数字の推移

廃藩置県によってそれまであった261の藩がすべて県に置き換えられて、既存の府県と合わせて3府302県という体制になりました。

その後、あまりにバラバラだった県の規模を大蔵省が30万石から40万石を基準に統合していて、同年11月までに3府72県にまとめられています。

現在おなじみの47都道府県という形に落ち着いたのは実はもっと後の1888年(明治21年)のことなんですよね。ここまで100年近くかかっていない、というのはあまり知られていないポイントかなと感じています。

反乱が起きなかった意外な理由

こんな大改革をしたら士族が怒って反乱を起こすんじゃないかと、当時のクーデター計画者たちも覚悟していたそうです。

でも実際には大きな反乱は起きませんでした。

その最大の理由は藩の借金を新政府がすべて引き継いで、士族への俸給の支払いも政府が保証すると約束したことだと考えられています。

つまり「収入は保障するから安心して」という条件付きだったんですね。知藩事だった旧藩主たちは免職になったものの、華族の身分と家禄は保たれたので、失うものが意外と少なかったというのも大きかったみたいです。

まとめ

以下、廃藩置県の日について押さえておきたいポイントをまとめておきます。

  • 記念日の由来は1871年(明治4年)7月14日に実際に廃藩置県の詔が出されたことに基づく
  • 旧暦の日付なので新暦換算では1871年8月29日にあたる
  • 版籍奉還では不十分だった中央集権化を完成させるための改革だった
  • 実質的には薩摩と長州出身のごく少数の高官による急な計画だった
  • 261藩が3府302県となり、その後3府72県へ統合された
  • 47都道府県の形になったのは1888年とかなり後のこと
  • 藩の借金と士族の俸給を政府が保証したことで反乱が回避された

7月14日が来るたびにこういう歴史の裏側を思い出すのもなかなか良いものだなと思います。何気なく過ぎていく記念日ですけど、その裏にはこんなにドラマチックな駆け引きがあったんですね。

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