7月18日はブラジル帝国の第2代皇帝ペドロ2世が正式に戴冠した日として知られていますね。
この記事を読めばなぜこの日が特別なのか、戴冠式で何が起きたのか、そしてペドロ2世がどんな人物だったのかがひと通りわかるようになっています。
「ペドロ2世って誰?」
「戴冠の日って何を祝う日なの?」
というモヤモヤを抱えている方に向けて、できるだけわかりやすくまとめてみました。
ペドロ2世戴冠の日の基本情報
まずはこの日がどういう出来事を指しているのか、ざっくり整理していきますね。
1841年7月18日に何があったのか
ペドロ2世戴冠の日とは1841年7月18日にリオデジャネイロの帝国礼拝堂(カペーラ・インペリアル)で行われた戴冠式を指しています。
式典自体は7月16日から24日までの9日間にわたって続いた大がかりなイベントだったみたいです。
当日の戴冠式そのものは3時間ほど続いたそうで正装したペドロ2世が皇帝の証である宝冠や笏、宝珠、剣などを受け取る儀式が中心だったと伝わっています。
戴冠時のペドロ2世は何歳だったのか
ここ、実は資料によって記載がわりとバラついているんです。日本語版のプロフィール情報では戴冠式の日付を1841年7月18日としつつ、1840年に14歳で親政を開始したと書かれています。
一方でポルトガル語版の資料では「14歳で戴冠した」という記述がある反面、生年月日(1825年12月2日)から単純に計算すると1841年7月時点では15歳のはずなんですよね。
このズレについては当時の年齢の数え方や記録の混在が関係しているのかもしれませんが、正確な理由は自分でも断定できないので、あくまで憶測として受け取ってもらえればと思います。
なぜペドロ2世は幼くして即位したのか
戴冠までにどんな政治的な背景があったのかを説明しますね。
父ペドロ1世の突然の退位
ペドロ2世は1825年12月2日、リオデジャネイロで生まれました。
父であるブラジル初代皇帝ペドロ1世は、長女マリア2世にポルトガル王位を継がせるため、1831年に自ら退位してブラジルを去ってしまったんです。
この時ペドロ2世はまだ5歳だったので実際に国を治めることはできず、摂政による統治がしばらく続きました。)
摂政政治から親政への移行
摂政3人体制はうまく機能せず、1834年には1年交代の単独摂政制に改められています。
そして1840年、14歳になったペドロ2世が「成人宣言」を経て親政を始めることになり、ブラジル生まれの君主が誕生したんですね。
この成人宣言があったからこそ、翌1841年の戴冠式が実現したわけで7月18日という日付は単なる記念日ではなく、混乱していた摂政期に区切りをつける意味も持っていたと言えそうです。
戴冠式当日はどんな様子だったのか
儀式の流れを知るとこの日がどれだけ手間をかけて準備された特別な日だったかが伝わってくると思います。
儀式の進行と衣装
当日、ペドロ2世は白と青のマントをまとい、帝国十字勲章のグランメストレを示す盾を身につけてカペーラ・インペリアルへ向かったそうです。
到着後は6人の司教に導かれて祭壇へ進み、右手首と両肩に聖油を塗る儀式を受けたと記録されています。
そのあとミサを聞き、帝位の象徴である品々を受け取って再び王座に座り、テ・デウムを聴いたという流れだったみたいですね。
民衆へのアクラマシオン(歓呼儀式)
儀式が終わるとペドロ2世はバルコニーに現れて民衆の前に姿を見せています。
紋章官が「聞け、聞け、注意せよ!」と叫び、続いてアルフェロス・モールという役職者が
「至高にして力強き君主、神の恩寵と国民一致の歓呼によりブラジル皇帝、永久の擁護者たるドン・ペドロ2世陛下は聖別された。皇帝万歳!」
と3回宣言したと伝わっています。
この後は祝砲が鳴り響き、ペドロ2世は宮殿の王座の間で来賓の祝辞を受けたそうです。
9日間続いた祝賀行事
戴冠の儀式そのものは1日で終わりましたがその後もサン・ジョアン劇場での公演や、新国歌の演奏などが続いたようです。
そして7月24日には1500人を招いた戴冠舞踏会がパソ・インペリアルで開催され、深夜1時半頃までお祝いが続いたと記録されています。
個人的には1週間以上も国全体でお祝いムードだったというのが、けっこう印象深いなと思いました。
戴冠式で起きた思わぬ事故
華やかなイメージの強い戴冠式ですが実は影の部分もあったんです。
花火の事故で死者が出ていた
祝賀期間中の7月22日、以前ジョアン6世の戴冠式のために建てられていた小屋が爆発し、火災が起きたそうです。
花火職人フランシスコ・デ・アシスをはじめ、親子や現場で働いていた奴隷を含めて4人が死亡したと記録されていて、周囲の建物の窓ガラスも吹き飛んだといいます。
原因は乾かしていた導火線にランプの金属部分に反射した太陽光が当たったことだったのではないかと考えられているそうです。
祝祭のイメージが強い戴冠の日ですがこうした痛ましい事故があったことも、正確な歴史として伝えておきたいなと思いました。
財政難の中での豪華な式典
歴史家パウロ・レズッチによればこの戴冠式は単なる祝典ではなく「ブラジル君主制の存在を示すためのアピール」だったとされています。
ただ実際のところ、当時のブラジルは内戦や分離運動を抱えていて財政も苦しく、リオグランデ・ド・スルなどの州はまだ反乱状態にあったそうです。
華やかな式典の裏側には、こうした苦しい国内事情が隠れていたんですね。
ペドロ2世という人物像
戴冠の日を知るならその主役であるペドロ2世自身についても触れておきたいところです。
リベラルな学問好きの皇帝
ペドロ2世は学問や芸術を愛するリベラルな君主でフリーメイソンの会員でもあったと伝わっています。
ブラジル初の鉄道整備を命じ、国内で最初に電話やタイプライターを使用したという記録も残っているんです。
それに荒れ果てたリオデジャネイロ裏山の再植林事業を成功させて、現在は世界最大級の都市森林とされるチジューカ国立公園につながっているというのも、なかなか興味深いエピソードだなと感じます。
奴隷制廃止と晩年の廃位
奴隷制の廃止にも力を入れていたペドロ2世ですがこの政策は教会や地主層の反発を招いてしまったようです。
糖尿病で統治能力が落ちていくなか、外遊中に長女イザベルが摂政として奴隷解放令に署名したことで地主の支持を完全に失い、1889年の軍部クーデターによって廃位されてしまいました。
晩年はポルトガルで冷遇され、最終的にはパリで1891年12月5日に亡くなっています。
帝政廃止後はむしろ国民から尊敬される存在になり、ブラジル史上最高の政治家と評されることもあるそうです。
戴冠式の記念品と象徴
最後に、当日使われた品々についても触れておきますね。ここを知っておくと、当時の式典のスケールがイメージしやすくなると思います。
| 品名 | 特徴 |
|---|---|
| ブラジル帝国宝冠 | 金細工師カルロス・マリンが制作、ダイヤモンド639個と母マリア・レオポルディナの真珠77個を使用、重さ1.9キログラム |
| 帝国の笏 | ブラガンサ家の紋章である蛇をあしらい、長さ2.5メートル |
| イピランガの剣 | 父ペドロ1世が独立宣言の際に使ったとされる剣 |
| 皇帝の王座 | ナポレオン・ボナパルトの王座から着想を得て設計 |
こうした品々は今もブラジルの帝国博物館などで見ることができるみたいで、当時の式典の豪華さを物語っているなと思います。
まとめ
戴冠の日についてざっくり振り返るとこんな感じになります。
- 1841年7月18日、リオデジャネイロのカペーラ・インペリアルで戴冠式が行われた
- 式典全体は9日間続き、24日の舞踏会で幕を閉じた
- 財政難や花火事故など華やかさだけではない歴史的な背景もあった
- ペドロ2世自身は学問好きで奴隷制廃止に努めた一方、晩年は廃位という結末を迎えた
歴史上の一日にこれだけの背景があると思うとただの年号として覚えるよりも、ずっと記憶に残りやすくなるんじゃないかなと思います。

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