清水寺建立の日とは?由来や歴史を解説【8月17日】

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8月17日は「清水寺建立の日」と呼ばれていて、798年の延暦17年7月2日に坂上田村麻呂が観音像を安置するための本堂を整えたことに由来しているんです。

この記事を読めばなぜこの日が清水寺建立の日とされているのか、そこに至るまでの歴史や登場人物の関係性まで、まるっと分かるようになると思います。

「清水の舞台から飛び降りる」ということわざは知っているけど、実際にお寺がどうやって始まったのかまでは知らないという方、けっこう多いんじゃないでしょうか。

目次

清水寺建立の日が8月17日とされる理由

8月17日という日付がどこから来ているのかを整理していきます。

延暦17年7月2日を新暦に直すと8月17日になる

清水寺の建立にまつわる日付は、もともと旧暦の延暦17年7月2日として伝わっているものなんです。

これを現在使われている新暦(グレゴリオ暦)に換算すると、798年の8月17日にあたるとされています。

この年に坂上田村麻呂が延鎮(えんちん)と協力して本堂を大規模に整え、十一面千手観音を本尊として安置したというのが、建立の日とされる出来事です。

ちなみにこの日付は日本記念日協会が正式に認定した記念日ではなく、あくまで歴史的な出来事の日として語られているものなので、その点は少し注意が必要かもしれません。

実際、清水寺自体が制定に関わった記念日としては4月3日の「みずの日」が日本記念日協会に登録されていて、8月17日の建立の日はそれとは性質が異なるものだと考えられます。

「創建」と「建立」は少し意味が違う

ここ、意外と混同されがちなポイントだなと感じています。

清水寺の創建自体は778年(宝亀9年)とされていて、これは延鎮(当時は賢心)が観音像を彫って草庵に安置した年のことなんです。

一方で8月17日の「建立」はその20年後にあたる798年に、坂上田村麻呂が本格的な本堂を整備した出来事を指しています。

なので、清水寺そのものの始まりは778年で、私たちがいま目にするようなお寺としての姿が整い始めたのが798年、というふうに二段階で捉えると分かりやすいと思います。

清水寺創建までの物語

坂上田村麻呂が登場する前の清水寺の原点にあたるエピソードを見ていきます。

行叡居士との出会いから始まった

清水寺の縁起によるとすべての始まりは奈良の子島寺(こじまでら)にいた僧侶、賢心(のちの延鎮)が見た夢のお告げでした。

夢の中で観音さまから北の山中に霊泉があると告げられた賢心は、その導きに従って東山の音羽山までたどり着きます。

そこで出会ったのが200年も修行を続けているという不思議な行者、行叡居士(ぎょうえいこじ)でした。

行叡は賢心に「あなたが来るのを待っていた」と言い残して姿を消し、その後に残された霊木を使って賢心が千手観音像を彫り、草庵に安置したのが清水寺のはじまりだと伝わっています。

200歳という設定はさすがに伝説的な要素が強いので実際には観音の化身として語り継がれてきた人物なのかなという気がしますね。

坂上田村麻呂との運命的な出会い

その2年後、宝亀11年(780年)に鹿狩りで音羽山を訪れたのが、のちに征夷大将軍となる坂上田村麻呂でした。

田村麻呂は妻の高子(たかこ)の病気平癒のために鹿の生き血を求めていたのですが、修行中の賢心から殺生の罪を説かれて心を打たれ、観音信仰に帰依したそうです。

その後、自邸を本堂として寄進し、夫婦で観音さまをお祀りするようになったというのが田村麻呂と清水寺の関わりの始まりだとされています。

坂上田村麻呂はなぜ本堂を整備したのか

ここでは、98年の本堂建立に田村麻呂がどう関わったのか、その背景を掘り下げます。

蝦夷平定への祈願と報謝という側面

田村麻呂は後に征夷大将軍として東北の蝦夷平定を命じられるのですが、出征前に自らが関わった清水寺で参拝を行い、無事に都へ帰還できたことへの報謝として本堂を大規模に改築したという説があります。

観音さまの加護によって戦に勝てたという信仰があったからこそ、より立派な形でお寺を整えたかったのかもしれません。

この時、観音像の脇侍として毘沙門天と地蔵菩薩の像もあわせて造られ、三尊として祀られるようになりました。

藤原明衡が記した「清水寺縁起」にみる年表

平安時代の学者、藤原明衡(ふじわらのあきひら)が著したとされる「清水寺縁起」には、もう少し細かい年表が残されています。

それによると798年に田村麻呂と延鎮が観音像を仮の宝殿に安置し、805年には桓武天皇(栢原天皇)の勅願寺として寺地が認められ、807年に田村麻呂の妻である三善高子が自邸の寝殿を壊して仏堂を建立したという流れになっているんです。

文献によって年代の細部が微妙に異なっているところもあって正直このあたりは資料ごとの解釈の違いなのかなと思いながら読んでいました。

清水寺という名前の由来

なぜ「清水寺」という名前になったのかを説明します。

音羽の滝の清らかさに由来している

清水寺という名称は境内にある「音羽の滝」の水がとても清らかだったことにちなんで名付けられたと伝わっています。

音羽の滝は今も三筋に分かれて流れ落ちていて、学業成就や恋愛成就、延命長寿などのご利益があると言われる人気のパワースポットになっていますね。

ただ、清水寺の公式な説明としては「滝の水はすべて同じもの」とされていて、それぞれの筧(かけい)にご利益の違いがあるという話は観光ガイド的に広まった迷信の側面もあるようです。

この違い、意外と知られていない気がします。

清水寺のその後と世界遺産としての価値

最後に、建立からのちの清水寺がどんな存在になっていったのかを見ていきます。

弘仁元年に公認の寺院となった

798年の本堂整備からしばらく後、弘仁元年(810年)に嵯峨天皇の勅許を得て、清水寺は正式な公認の寺院として認められました。

それから幾度も焼失と再建を繰り返しながら、現在の本堂は寛永10年(1633年)、江戸幕府三代将軍の徳川家光の寄進によって再建されたものが残っているとされています。

清水の舞台として知られるあの舞台もこの再建時の本堂の一部です。

1994年に世界文化遺産へ登録された

清水寺は平成6年(1994年)12月に、賀茂別雷神社や東寺、二条城などとともに「古都京都の文化財」として世界文化遺産に登録されました。

778年の創建から数えると、1250年近くの歴史を積み重ねてきた霊場ということになりますね。

個人的にはこんなに古い時代の信仰の物語が今も観光地として多くの人に親しまれ続けているというのが、なんだかとても感慨深いなと感じています。

まとめ

清水寺建立の日についてポイントを整理してみますね。

  • 8月17日は798年(延暦17年7月2日)に坂上田村麻呂が清水寺の本堂を整備したことに由来する日
  • 清水寺そのものの創建は778年で、賢心(延鎮)と行叡居士の出会いが原点になっている
  • 坂上田村麻呂は妻の高子とともに観音信仰に帰依し、蝦夷平定の報謝として本堂を大規模に改築した
  • 寺名は境内の音羽の滝の清らかさにちなんで名付けられた
  • 1994年に古都京都の文化財として世界文化遺産に登録されている

こうして振り返ってみると8月17日という一つの日付の裏に、賢心と行叡の出会いから田村麻呂夫妻の信仰、そして1250年にわたる歴史まで、かなり奥深い物語が詰まっていることが分かりますね。

今度清水寺を訪れる機会があったら、こうした背景を思い出しながら本堂や音羽の滝を眺めてみるとまた違った感情があるかもしれません。

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