御成敗式目制定の日とは?由来や歴史を解説【8月27日】

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御成敗式目制定の日について知りたい方に向けて、この記事を読めば8月27日がどうしてこの記念日になっているのか、御成敗式目そのものの歴史や内容までひとまとめに分かるようになっています。

学校の授業でちらっと聞いたけど正直よく覚えていないという方も、けっこう多いんじゃないかなと思います。

私も改めて調べてみて、思った以上に奥が深いテーマだなと感じました。

目次

御成敗式目制定の日とは何か

まずは8月27日がなぜ御成敗式目に関する記念日として扱われているのか、その基本的なところを整理していきますね。

8月27日という日付の由来

御成敗式目は貞永元年8月10日、つまり旧暦のこの日に制定されたとされています。

この旧暦の日付を新暦に変換すると1232年8月27日にあたるというのが、記念日として8月27日が使われている理由なんですね。

ちなみに、この日付の根拠になっているのは鎌倉時代の記録『吾妻鏡』です。

なので厳密には制定の瞬間そのものが8月27日というわけではなく、旧暦の8月10日を現在の暦に置き換えた日付だという点、ちょっとおもしろいなと思いました。

条文自体はもう少し前、貞永元年7月にはほぼ完成していたようでそれが8月に公布されたという流れだったみたいです。

つまり作られたのが7月、実際に世に出されたのが8月、というふうに段階があったということですね。

制定者は北条泰時

制定を主導したのは鎌倉幕府の3代執権、北条泰時です。

泰時は弟への手紙の中で、強い者が勝って弱い者が負けるような不公正をなくし、身分の上下に関わらず公正な裁判を行うためにこの式目を作ったと述べていたそうです。

この言葉、個人的にはかなり印象的でした。

当時の武士社会において身分の上下を問わず公平を目指すという発想自体、案外先進的だったんじゃないかなという気がします。

御成敗式目が作られた時代背景

なぜこの時期にこうした法律が必要とされたのか、背景を見ていきます。

承久の乱後の混乱

御成敗式目が制定される少し前、1221年に承久の乱という大きな戦いが起きています。

この乱の後、幕府の支配範囲が西日本にまで広がったことで、御家人同士の土地に関する争いごとが増えていったようです。

それまで通用していたルールが広がった支配地域では通じにくくなっていた、というのが実情だったのかもしれません。

武家社会に法がなかった問題

当時の武家社会にははっきり明文化された法律がなかったんです。

判断基準になっていたのは道理と呼ばれる慣習や道徳のようなものでしたがそれが人や地域、身分によってブレていたため、争いの解決方法もそのたびに違っていたと言われています。

だからこそ紛争が絶えなかったわけで誰が見ても分かる共通のルールが必要だったんでしょうね。

御成敗式目の内容をわかりやすく解説

内容そのものも意外と細かく決められているのでここで整理してみます。

全51条の構成

御成敗式目は全部で51条から成っています。

最初は35条ほどだったものに、あとから条文が追加されて最終的に51条になったとも言われているんです。

この51という数字、聖徳太子の十七条憲法にちなんで17の倍数にしたという見方もあるようで、これはあくまで一つの説として受け止めておいた方がいいかもしれません。

内容の中身をざっくり分けると

  • 社寺に関する規定
  • 守護や地頭の権限
  • 所領の相続や譲渡
  • 刑罰
  • 家族や親族に関するもの
  • 訴訟の手続き

など、かなり広い範囲をカバーしています。

全51条のうち、領地関係の規定だけで18条もあるそうで当時の武士にとって土地がいかに大切だったかがよく分かりますね。

土地や裁判に関する規定

とくに注目したいのが「悔返権」と「年紀法」という考え方です。

これは武家社会が独自に生み出した法制度だとされていて既存の律令にはなかった発想だったようです。

悔返権は簡単に言うと、いちど譲った所領を親などが取り戻せる権利のことで、家族間の土地トラブルを想定した仕組みだったのかなと思います。

年紀法は所有の期間に関わるルールでこちらも当時の土地争いの実情を反映したものだと考えられます。

御成敗式目の目的と特徴

制定の目的やこの法律らしい特徴についても触れておきますね。

道理を重視した公正な裁判

御成敗式目の大きな特色は道理を重んじ、実用的で、平易な言葉で書かれていることだと言われています。

漢文で書かれているものの、武士にも分かりやすいよう配慮された表現になっていたそうです。

律令のような複雑な法律とは違って実際の裁判で使いやすいことを重視して作られたという印象を受けます。

十七条憲法との数字の関係

先ほど触れた51条という数字ですが、これが十七条憲法の17の3倍という点は後世の研究者の間でもよく指摘されているポイントみたいです。

ただ、これが泰時たちの意図的な仕掛けだったのか、ただの偶然だったのかまでは正直はっきりした資料は見当たりませんでした。

あくまで仮説として捉えておくのがいいのかなと思います。

御成敗式目が後世に与えた影響

鎌倉時代だけでなく、その後の時代にどう受け継がれていったのかを見ていきます。

室町幕府と戦国大名の分国法への継承

鎌倉幕府が滅んだあとも御成敗式目は法令として有効だったそうです。

足利尊氏も式目の規定を守るよう命じていて室町幕府の建武式目や、戦国時代に戦国大名たちが定めた分国法も、御成敗式目そのものを廃止するのではなく、あくまで追加の法令という位置づけだったとされています。

伊達氏の塵芥集、武田氏の甲州法度次第、今川氏の今川仮名目録といった有名な分国法は、いずれも御成敗式目を参照して作られたことが分かっているみたいです。

何百年も経ってなお影響を残していたというのはけっこう驚きでした。

江戸幕府の武家諸法度まで

道理を重んじる考え方や実用性、それまでの秩序との調和というこの式目の基本理念は、江戸幕府の武家諸法度に至るまで、法律文化の中心にありつづけたと言われています。

鎌倉時代に作られた法律が、江戸時代の終わりごろまで影響を残していたとしたら、それはもうただの一時的な法令ではなく、日本の法の考え方そのものに根を張っていたと言えそうですよね。

思想家の山本七平は御成敗式目について「自前の秩序」を示した日本人を動かす原理を明示化したものだと評価していたそうです。

この評価、けっこう重みがあるなと感じました。

まとめ

御成敗式目制定の日について要点を整理しておきます。

  • 8月27日は貞永元年8月10日を新暦に置き換えた日付で1232年に御成敗式目が制定されたことにちなむ記念日です
  • 制定したのは鎌倉幕府3代執権の北条泰時で公正な裁判を目指したとされています
  • 承久の乱後に広がった支配地域での土地争いが、法整備の背景にあったと考えられます
  • 全51条で構成され、土地相続や訴訟手続きなど武家社会の実情に合わせた内容になっています
  • 室町幕府の建武式目や戦国大名の分国法、さらに江戸幕府の武家諸法度にまで影響を残した日本初の武家法として位置づけられています

改めて振り返ってみると単純な古い法律というより、その後の日本の法律文化の土台になった存在なんだなと感じました。

8月27日にふと思い出してみるのも、いいきっかけになるかもしれません。

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