この記事を読めば8月28日が「バイオリンの日」と呼ばれる理由や、その裏にある明治時代の職人の挑戦がしっかりわかると思います。
なんとなく聞いたことはあるけど詳しい由来までは知らないという方、けっこう多いんじゃないでしょうか。
今日はそのあたりをじっくり掘り下げていきますね。
バイオリンの日とはどんな記念日なのか
まずはこの記念日がどういう出来事に基づいているのか、大枠を押さえておきましょう。
1880年8月28日に起きたこと
バイオリンの日は1880年(明治13年)8月28日に、東京深川の三味線職人だった松永定次郎という人物が、日本で初めて国産のバイオリンを完成させたことに由来しています。
当時31歳だった松永は三味線に似た音色の良い楽器が西洋にあると聞いて、それを探し歩いたそうなんです。
この地道な行動力、正直かなり印象的だなと思いました。
なぜ8月28日という日付が特定されているのか
面白いのがこの日付がかなり具体的に伝わっている点です。
明治文化の百科事典と言われる『明治事物起原』(石井研堂著、1908年初刊)という書物に「バイオリンの製造」という項目として収録されていて、そこにこの日のことが記されているようです。
当時の出来事がこうして記録として残っているのはなかなか貴重だなと感じます。
バイオリンの日の由来となった松永定次郎という人物
ここでは由来の中心人物である松永定次郎がどんな経緯でバイオリンにたどり着いたのかを見ていきます。
深川の三味線職人だった松永定次郎
松永定次郎は東京深川で三味線を作る仕事をしていた職人でした。三味線と洋楽器のバイオリンは材料も構造も全然違いますよね。
でも弦楽器という共通点があったからこそ、彼はチャレンジしようと思えたのかもしれません。
あくまで自分の見立てですが三味線職人としての手先の技術があったからこそ、独学でも形にできたんだろうなという気がしています。
ニコライ堂で見た一台のバイオリン
松永は神田駿河台にある大聖堂「ニコライ堂」(東京復活大聖堂)に、探していた楽器があると聞きつけました。
そこで楽師に頼み込んでバイオリンを見せてもらい、詳しい図面を採らせてもらったそうです。
ニコライ堂の外国人ヴァイオリニストが持っていた楽器を手本にしたというのは、けっこう有名な話みたいですね。
当時、正教会という場所が異文化との接点になっていたというのもなんだか時代を感じさせます。
国産バイオリン第一号はどうやって作られたのか
由来を語るうえで欠かせないのが、実際の製作過程です。ここではその具体的な内容に触れていきます。
輸入ラシャの外箱を材料にした製作
松永は図面を頼りに輸入ラシャ(毛織物)が入っていた木箱を材料にして、バイオリンを組み立てたと言われています。
専用の木材や工具が十分に揃っていたわけではなさそうで、身近にあるものを活用して作り上げたという点が、けっこう驚きでした。
この工夫の仕方、職人らしいなと思います。
当初は「堤琴」と呼ばれていた楽器
完成したばかりの頃、バイオリンという名前自体がまだ馴染みが薄くて、「堤琴(ていきん)」という呼び方が使われていたそうです。
今では当たり前に「バイオリン」と呼んでいますが、明治初期には呼称すら定まっていなかったというのは、ちょっと想像しづらい話ですよね。
西洋楽器が日本に浸透していく過程のまさに入り口だったんだろうなと思います。
松永定次郎から鈴木政吉へ広がった国産バイオリンの流れ
バイオリンの日の由来は松永定次郎の話が中心ですが、その後の展開にも触れておきたいところです。他の記念日の話ではなく、あくまでこのバイオリン製作史の続きとして見ていきますね。
鈴木政吉が製作を始めたきっかけ
松永の完成から数年後、1887年(明治20年)に、名古屋出身の鈴木政吉という人物がバイオリン作りを始めています。
師範学校の生徒が持っていたバイオリンを見て心を引かれ、一夜借りて試作にとりかかったと記録されています。
翌年には鈴木バイオリン第1号を完成させたそうです。
ちなみに鈴木も政吉自身も三味線や琴を作る家の出身で、松永と似た背景を持っていたのが面白いところです。
鈴木バイオリン製造株式会社への発展
鈴木政吉はその後、頭部を削る専用機械を発明したり、1900年のパリ万国博覧会でバイオリンが銅賞を受賞したりと、実績を積み重ねていきます。
1930年(昭和5年)には資本金50万円で鈴木バイオリン製造株式会社を設立しました。
個人的には松永定次郎のほうが「日本初」の当事者なのに、知名度でいうと鈴木政吉のほうが先行しているように感じる部分があって、ここはちょっと意外な真実だなと思っています。
スミソニアン博物館の資料でも日本最初期のバイオリン製作者として松永定次郎と鈴木政吉の二人が並べて紹介されているんです。
歴史の記録が残る形と、後世での知られ方には差が出るものなんだなと感じました。
バイオリンが日本社会に広まっていった背景
由来となった出来事のあとにこの楽器がどう社会に根付いていったのかも押さえておきたいですね。
上流階級の嗜みから庶民の楽器へ
明治時代、バイオリンは主に上流階級の子女のたしなみとして少しずつ広まっていったようです。
当時は高価な輸入品しかなかったので限られた層の人しか触れられなかったんだろうなと思います。
自由民権運動と演歌の伴奏楽器として
その後、自由民権運動が盛んだった時期には、自分の思想を広めるための演説や演歌の伴奏楽器としてバイオリンが使われていったそうです。
こうした使われ方があったからこそ庶民の間にも次第に浸透していったのかもしれません。
上流階級の楽器から街角の演歌の伴奏へという流れ、なかなかドラマチックだなと思いました。
現代における国産バイオリンの立ち位置
この由来から続くバイオリン事情についても触れておきます。
鈴木バイオリンの国内シェアと生産本数
現在、鈴木バイオリンの国内シェアはおよそ30パーセント、生産本数は年間4300本程度と言われています(国立国会図書館のレファレンス情報より)。
これは肌感で言うと、国内メーカーとしてはかなり大きな存在感を持っているといえそうです。

国内のバイオリン人口はどのくらいか
同じ資料によると国内のバイオリン人口はおおよそ10万人程度とされています。
細かく検証してないですが、クラシック演奏の場だけでなく、教室に通う子どもや趣味で続けている大人まで含めると、この数字も納得できる規模かなという気がします。
明治期に一台の楽器から始まった歴史が今も続いているというのは、なんとなく胸が熱くなるものがありますね。
まとめ
バイオリンの日について由来から歴史までを振り返ってみました。
- バイオリンの日は1880年8月28日、松永定次郎が国産バイオリン第一号を完成させたことに由来する
- 松永はニコライ堂にあった外国人ヴァイオリニストのバイオリンを手本に、輸入ラシャの外箱を材料にして製作した
- この出来事は明治事物起原という書物に記録として残されている
- その後、鈴木政吉が製作を始め、鈴木バイオリン製造株式会社として発展していった
- 現在も国産バイオリンは国内の楽器文化の中で一定の存在感を保っている
こうして振り返ってみると一人の職人の探求心から今のバイオリン文化がつながっているんだなと、あらためて感じます🎻

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