乃木大将の日とは?由来や歴史を解説【9月13日】

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9月13日は「乃木大将の日」と呼ばれる記念日です。

この記事を読めばなぜこの日が乃木大将の日とされているのか、そして乃木希典という人物がどんな生涯を送ったのかがわかります。

歴史の授業でちらっと名前を聞いたことはあるけど実際どんな人だったのか、なぜ自ら命を絶ったのか気になっている方、多いんじゃないでしょうか。

私も調べていくうちに、ただの軍人の逸話では終わらない明治という時代そのものを映し出す出来事だったんだなと感じました。

目次

乃木大将の日とは何なのか

まずは9月13日がなぜ乃木大将の日と呼ばれるようになったのか、その由来をお伝えします。

由来は1912年の明治天皇大喪の礼

1912年、明治45年であり大正元年でもあるこの年の9月13日、明治天皇の国葬にあたる「大喪の礼」が執り行われました。

会場は現在の明治神宮外苑にあたる青山の陸軍練兵場で、午後8時ごろ、天皇のご遺体を乗せた車が皇居を出発する合図として号砲が鳴らされたとされています。

この号砲が鳴った時刻に合わせるようにして、陸軍大将だった乃木希典が妻の静子とともに自邸で命を絶ったんです。

この出来事にちなんで、9月13日は乃木大将の日として位置づけられるようになりました。

ちなみにこの日は「乃木忌」や「希典忌」とも呼ばれているようです。

乃木希典という人物の基本プロフィール

乃木希典は嘉永2年、西暦でいうと1849年生まれの陸軍軍人です。

長州藩の支藩にあたる長府藩の出身で西南戦争や日清戦争、そして日露戦争と、明治期の主要な戦争のほとんどに関わってきた人物なんですね。

最終的な階級は陸軍大将、役職としては歩兵第14連隊長や台湾総督、第3軍司令官、そして学習院院長などを歴任しています。

「乃木大将」「乃木将軍」の呼び名で国民から親しまれた存在で、東京の地名「乃木坂」は彼の名前に由来しているんです。

乃木希典はどんな軍人だったのか

ここでは乃木希典が軍人としてどんな道を歩んできたのか、彼の人生に大きな影を落とした出来事も含めて振り返ります。

西南戦争で軍旗を失った悔い

1877年、明治10年に起きた西南戦争のとき、当時28歳だった乃木は歩兵第14連隊長として戦闘に加わっていました。

ところがこの戦いで西郷隆盛率いる薩摩軍に連隊旗を奪われてしまうんです。

軍旗を敵に奪われるというのは軍人にとって最大級の恥とされていて、実はこのことが乃木の中でずっと消えない重荷になっていたようです。

本人が遺書の中でこの時からずっと死に場所を探し続けてきたという趣旨のことを記しているのは、けっこう知られた話なんですよね。

日清戦争から台湾総督としての歩み

その後の日清戦争では歩兵第一旅団長として旅順攻略に加わり、1896年には台湾総督にも就任しています。

この時期の乃木については資料が限られていて、私も詳細な部分まで完全に把握できているわけではないんですが、軍人としての実績を着実に積み重ねていった時期だったと言えそうです。

日露戦争と旅順攻囲戦の指揮

日露戦争では第3軍司令官として難攻不落と言われた旅順要塞を攻める指揮を執りました。

この旅順攻囲戦では日本側だけで約5万9000人、そのうち戦死者は約1万5000人にのぼったとされています。

しかも乃木自身、この戦いで長男と次男の二人を失っているんです。

多大な犠牲を払いながらも最終的に旅順を陥落させたこの戦いは、後の乃木評価を大きく左右する出来事になっていきました。

水師営の会見に見る武士道精神

ここでは旅順陥落後に世界中から称賛を集めた乃木のふるまいについてお伝えします。

敗れた敵将ステッセルへの対応

旅順が陥落したあと乃木は降伏したロシア軍司令官のステッセルと「水師営の会見」と呼ばれる会談を行いました。

このとき乃木は敗れた将軍を辱めることなく、武人として丁重にもてなしたと伝わっています。

勝者でありながら敗者の名誉を守るという姿勢、なかなかできることじゃないですよね。

世界が称賛した理由

この会見の様子は海外にも大きく報じられて、乃木の礼節や仁愛にあふれたふるまいは世界中から賞賛を集めることになったそうです。

日露戦争後、各国を歴訪した際にも英雄的な扱いを受けたと言われています。

当時の日本にとって武士道という価値観を国際社会に印象づける象徴的な人物になっていたんだろうなと思います。

学習院長として昭和天皇の教育に携わった日々

続いては軍人としてのキャリアの後半で乃木が担った、意外と知られていない役割についてです。

明治天皇からの信任で学習院長に

1907年、明治40年1月31日に、乃木は明治天皇の意向によって学習院院長に任命されました。

ここで教育に携わったのが迪宮裕仁親王、のちの昭和天皇です。

二人の息子を戦争で失った乃木に対して、明治天皇が

「おまえは子供を失って寂しいだろうから、その代わり沢山の子供を授けよう」

といった趣旨の言葉をかけたという逸話も残っています。

真偽の細部までは確認しきれていない部分もありますが、当時からよく語り継がれてきた話のようです。

寄宿舎生活で示した質実剛健の姿勢

学習院長としての乃木は寄宿舎で生徒たちと寝食をともにしながら、質素と忍耐を重んじる姿勢を貫いたとされています。

皇族の子弟にも一般の生徒と同じ規律を求めたというのは、彼の人柄をよく表しているエピソードだなと感じます。

大正元年9月13日、乃木夫妻はなぜ殉死を選んだのか

ここが乃木大将の日の中心となる出来事です。なぜあの日に自刃という選択に至ったのか、順を追って見ていきます。

明治天皇崩御から大喪の礼までの流れ

明治天皇は1912年7月30日に崩御しました。

それから約1ヶ月半後の9月13日、青山の陸軍練兵場で大喪の礼が営まれ、翌14日には伏見桃山陵に埋葬されています。

この大喪の礼が行われた9月13日の夜、乃木夫妻は赤坂の自邸で自刃を遂げました。

遺書に記された自刃の理由

乃木が残した遺書には西南戦争で軍旗を失って以来ずっと死に場所を探してきたこと、自分はもう年老いて子供たちも亡くしていることなどが記されていたようです。

もう一つ、旅順攻囲戦であまりに多くの兵を犠牲にしてしまったことへの自責の念から、かねて明治天皇に自らの死を願い出ていたという説も伝わっています。

どちらか一方だけが理由というより、いくつもの思いが重なったうえでの決断だったのかなと個人的には感じます。

妻・静子との最期

乃木は妻の死を見届けたうえで自ら腹を切ったと伝えられています。

享年については資料によって表記に差があって、満年齢で62歳とする記録もあれば63歳や64歳とするものもあるんですね。

これは年齢の数え方、満年齢か数え年かの違いによるところが大きいと考えられます。

妻の静子についても年齢表記に幅があり、50代前半だったとされています。

乃木大将の死が日本社会に与えた影響

乃木の死が当時の日本や後世にどんな影響を残したのかをまとめます。

乃木神社の創建と乃木坂の地名

夫妻の忠誠心に心を打たれた国民が乃木邸を訪れるようになり、その隣接地に創建されたのが乃木神社です。

栃木県那須塩原市にも乃木神社があり、命日である9月13日を例祭日として今も祭礼が続けられています。

東京の地名「乃木坂」もこの乃木希典の名にちなんで名付けられたものです。

夏目漱石『心』に描かれた明治の精神

小説家の夏目漱石は乃木の殉死を作品の中で取り上げています。

作中の「明治の精神は天皇に始まり天皇に終わったような気がする」という表現は、乃木の死と重ね合わせて語られることが多い一節ですね。

文学作品にまで影響を与えたという事実は、この出来事が当時の日本人にとってどれほど大きな衝撃だったかを物語っていると思います。

海外の反応と評価の分かれ方

一方で海外の受け止め方は、日本国内とはかなり違っていたようです。

欧米では殉死という行為そのものが理解しがたいものと見なされ、歴史家のジョージ・サンソムは1963年の著作の中で殉死を「野蛮な習わし」と表現したとも伝わっています。

とはいえ、絶望からではなく忠誠心から自らの命を絶ったという解釈で紹介している海外の資料もあり、受け止め方は一様ではなかったようです。

江戸幕府は1663年にすでに殉死を禁止していたので明治の世にこの慣習が復活したこと自体、当時としてもかなり衝撃的な出来事だったんじゃないかなと思います。

旅順攻囲戦の犠牲は本当に愚将の証だったのか

ここからは私の見立てになりますが、乃木評価を語るうえで避けて通れない論点として触れておきたいと思います。

司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』以降、旅順攻囲戦で多大な犠牲を出した乃木は「無能な将軍が兵を無駄死にさせた」という文脈でたびたび語られてきました。

ただ、近年の研究では、当時の要塞戦としてはこの損害規模が世界的に見て特別に突出したものではなかったという指摘もあるようなんです。

あくまで一つの見方であって断定はできないんですが、あの時代の要塞攻略戦がそもそも凄まじい犠牲を伴うものだったという背景を踏まえると、乃木一人の指揮能力だけに原因を求めるのはちょっと単純化しすぎているのかもしれないなと個人的には思っています。

戦後になって歴史の授業で乃木があまり取り上げられなくなった経緯もあり、評価が定まりきっていない人物なんだろうなという印象です。

まとめ

乃木大将の日について由来と背景を整理してきました。

ポイントをまとめておきます。

  • 9月13日は1912年の明治天皇大喪の礼が行われた日であり、この夜に乃木希典が妻の静子とともに殉死したことに由来する記念日です
  • 乃木希典は西南戦争での軍旗喪失、日清戦争や日露戦争での指揮、旅順攻囲戦での二人の息子の戦死など、重い経験を積み重ねた軍人でした
  • 水師営の会見で示した武士道精神は世界からも称賛を集めました
  • 学習院長として昭和天皇の教育に携わったことも、乃木の生涯の中で見逃せない役割です
  • 遺書には西南戦争の軍旗喪失や旅順での犠牲への自責の念が記されており、殉死の理由は一つに絞りきれない複合的なものだったと考えられます
  • 乃木神社や乃木坂の地名にもその存在の大きさが今なお刻まれています

乃木希典という人物は単純な英雄でも愚将でもなく、明治という激動の時代を体現した複雑な生き方をした人だったんだなと、あらためて感じさせられました🙏

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