レモンの日の由来や意味、レモン哀歌に込められた物語、今日からできる過ごし方まで、この記事を読めば全部わかります。
「レモンの日って果物のレモンの日じゃないの?」
「なんで10月5日なんだろう」
とふと気になった方のための内容です。
実はこの日、フルーツの宣伝のために作られた記念日とは少し違います。背景にあるのはある夫婦の切ない最期のひとときなんです。
レモンの日とは?10月5日の意味
ここを読むとレモンの日がどんな日なのか、いちばん大事なところが短時間でつかめます。
果物の記念日ではなく詩人夫妻に由来する日
10月5日のレモンの日は詩人であり彫刻家でもある高村光太郎の妻、智恵子の命日にちなんでいます。
智恵子が亡くなったのは1938年(昭和13年)10月5日です。
光太郎が彼女の最期を詠んだ詩「レモン哀歌」があり、その詩から「レモンの日」と呼ばれるようになりました。
「レモン」と聞くと、ビタミンCや爽やかな黄色を思い浮かべますよね。
私も最初は、柑橘の業界団体が作った日なのかなと思っていました。意外とそうではなく文学とつながった記念日だったんです。
「レモン忌」という呼び方もある
この日は「レモン忌」とも呼ばれます。
「忌」は故人をしのぶ日につける言葉で文学者の命日にこうした名前がつくことは少なくありません。
「レモンの日」という明るい響きの裏に、命日をしのぶ気持ちが重なっている。
そう思うと同じ日付でも見え方がガラッと変わってきませんか?🍋
制定した団体ははっきりしていない
ここは正直にお伝えしておきたい部分です。
私が確認できた範囲ではレモンの日を「いつ、誰が、何の目的で」正式に決めたのかを示す資料は見当たりませんでした。
企業や団体が商品PRのために登録した記念日とは違い、自然に広まっていった日という印象です。
あくまで私の推測ですが詩が教科書や朗読で長く親しまれてきたことで、命日とレモンが結びついて定着していったのかもしれません。
確かな記録がない以上、断定は避けておきますね。
由来になった高村光太郎と智恵子の物語
ここではレモンの日の主人公である二人がどんな人物で、どんな人生を送ったのかを順番に見ていきます。
高村光太郎はどんな人?
高村光太郎は1883年に生まれ、1956年に亡くなった大正から昭和期の詩人であり彫刻家です。
彫刻家・高村光雲の長男として生まれ、東京美術学校(現在の東京藝術大学)で学びました。
その後、ニューヨークやロンドン、パリに渡って彫刻や絵画を学んでいます。
留学では個人が自由に生きるという西洋の考え方に強く影響を受けたそうです。帰国後は父の跡を継ぐことへの葛藤を抱えながら、詩集『道程』や『智恵子抄』などを発表しました。
芸術家としての顔と詩人としての顔、どちらも持っていた方なんですよね。
智恵子は洋画家であり紙絵作家だった
智恵子は1886年に福島県の造り酒屋の家に生まれました。
地元の女学校を卒業したあと上京し、日本女子大学校に通いながら油絵を学び始めます。
卒業後も東京に残り、画家を目指しました。雑誌『青鞜』の表紙絵を描いたことでも知られています。
のちに紙を切り貼りして作る「紙絵」でも作品を残しました。
「光太郎の奥さん」という紹介をされがちですが自分の表現を持った芸術家だったんだなと感じます。
自由を尊重し合って結ばれた二人
二人はお互いの人間としての自由を尊重して一緒になったと伝わっています。
家に縛られず、それぞれが芸術に向き合う独立した人生を共に歩もうとしたということですね。
ところが智恵子はやがて精神を病み、光太郎の看病を受けながら最後は肺結核で亡くなります。
その最期の数時間前の出来事がレモン哀歌の場面です。理想を掲げて始まった結婚だっただけに、胸が痛みます。
「レモン哀歌」に描かれた最期の場面
ここを読むと詩の中でレモンがどんな意味を持っているのか、なぜこの果物が選ばれたのかが見えてきます。
詩の内容をやさしく読み解く
レモン哀歌は智恵子が亡くなる直前、光太郎の手から渡されたレモンを口にする場面を描いた詩です。
智恵子はそのレモンを歯でかじります。
すると香りがふわっと立ちのぼり、レモンの数滴の汁が、病で混濁していた意識を一瞬だけはっきりさせた、という内容です。
智恵子はもとの智恵子に戻り、光太郎の手を握り返して、生涯の愛をその一瞬に傾けます。
そして深く息をひとつ吐いて静かに息を引き取ります。
詩の最後は写真の前に供えられた桜の花のそばに、今日もレモンを置こう、という光太郎の言葉で閉じられています。
詩の全文はここでは載せませんが短い作品なので、ぜひご自身で読んでみてください。
なぜレモンだったのか
レモンの鋭い酸味と香りは弱った体にも強く届く刺激です。
詩の中でも、その一口が智恵子の意識を引き戻しています。
では、なぜレモンだったのか。ここからは私の考えです。
昔から果物は病床の人への贈り物として定番でしたし、その中でもレモンは「香りで目が覚める」存在だったのではないでしょうか。
レモンの黄色と死の床の白さの対比も、詩の中で際立っているように感じます。
光太郎自身がパリ留学中にレモンの入ったコーヒーに出会った思い出があったとも、NHK Eテレの番組紹介文から読み取れます。
つまりレモンは光太郎の人生の中でも特別な果物だったのかもしれません。
『智恵子抄』という詩集の位置づけ
『智恵子抄』は1941年(昭和16年)に出版された詩集です。
光太郎が智恵子と結婚する前の1912年ごろから、彼女の死後までの約30年間に書いたものが収められています。
数でいうと、詩が29編、短歌が6首、散文が3編です。
レモン哀歌が詩集に入ったのは智恵子の死後、約3年がたってからになります。
出版時期を意識して読むと悲しみが時間をかけて言葉になっていったのかなと想像してしまいます。
日付と年号を間違えやすい理由
ここではレモンの日を調べているとぶつかりやすい日付の食い違いについて、正しい情報を整理します。
命日は1938年10月5日
智恵子の命日は1938年(昭和13年)10月5日で、享年52歳です。
レモンの日の日付はこの命日がもとになっています。
これだけ聞くと単純なのですが、情報を集めていると、意外な落とし穴があるんです。
ネット上には誤記も混ざっている
実際に調べてみると、年を「1983年」と書いているページや、命日を「10月3日」と書いているページが見つかりました。
1983年は1938年の数字の入れ替わり、10月3日は単純な日付の間違いだと思います。
ここは私の推測ですが、コピーして引用されるうちに誤りが広がったのではないでしょうか。
もし記念日の投稿やお店のPOPを作るなら、「1938年10月5日」を必ず確認してください。
ちなみにレモン哀歌は1939年(昭和14年)に発表されたと紹介されることが多く、『智恵子抄』の出版は1941年です。
年号が三つ並ぶので、混ざりやすいんですよね。
覚え方のコツ
私なりの覚え方をお伝えしますね。
「1938」は「いくさ(19)に三(3)つ八(8)」みたいな語呂合わせも作れますが、無理に覚えなくても大丈夫です。
要は「10月5日=智恵子の命日」「レモン哀歌=その最期」「詩集の出版=1941年」の3点を押さえておけば、まず間違えません。
光太郎は命日にレモンを供え続けた
ここを読むと詩の中だけで終わらない、光太郎の行動と今も続く追悼のかたちがわかります。
命日にレモンを供える習慣
NHK Eテレの番組紹介によれば光太郎は智恵子の命日の10月5日に、レモンを供え続けたそうです。
詩の最後の「今日もレモンを置こう」という一節が、現実の習慣でもあったということになります。
作品の中の出来事がその後の生活の中でも続いていた。
この事実に、私はかなり心を動かされました。
智恵子の故郷、福島県二本松での取り組み
智恵子の故郷は福島県二本松市の旧安達町です。
ここの学校給食では食育の一環として児童が献立を考える「ほんとの空献立」の日があるそうです。
智恵子が「ほんとの空」という言葉で故郷の空を語ったことにちなんだ名前だと思います。
また、長野県安曇野の碌山美術館では、「高村光太郎没後70年高村智恵子生誕140年高村光太郎・智恵子展」が2026年11月23日まで開かれています。
国産レモンの産地とレモンの日
ここでは日付の由来とは別に、実際のレモンについて知っておくと楽しくなる産地の話をまとめます。
日本一の産地は広島県
広島県の発表では令和3年産の広島県のレモン生産量は4,401トンで、全国の8,660トンのうち51パーセントを占めています。
栽培面積は302ヘクタールで、全国736ヘクタールの約41パーセントです。
産地は呉市や尾道市、大崎上島町など瀬戸内の島々が中心です。
温暖で雨が少なく、台風の被害も比較的少ないことが栽培に向いているとされています。
広島のレモン栽培のはじまり
広島県のレモン栽培は明治31年に呉市豊町の大長で始まったといわれています。
和歌山県からネーブルの苗木を買った際に、レモンの苗木が3本まぎれ込んでいたのが最初だそうです。
偶然のスタートだったなんて、ちょっと面白いですよね。
昭和28年には、瀬戸田地区を含め広島県が全国一のレモン生産県になりました。
昭和38年には県の栽培面積が70ヘクタール、生産量は600トンを超え、全国の約50パーセントに達しています。
国産レモンの割合は意外と少ない
瀬戸内レモン農園のサイトによれば国内で流通しているレモンのうち、国産は約9パーセントとのことです。
そのうちの51パーセントが広島県産という構成になります。
つまり、スーパーで見かけるレモンの大半は輸入品だということです。
レモンの日に国産レモンを選んでみるというのも小さな楽しみ方かもしれません。

レモンの日の過ごし方と私の考え
ここを読むと10月5日に今日からできる、無理のない過ごし方が見つかります。
詩を読み、声に出してみる
いちばんおすすめなのはレモン哀歌を実際に読んでみることです。
短い詩なので、数分で読み終わります。
黙読もいいのですが声に出してみると、息継ぎの位置から場面の静けさが伝わってきます。
初めて声に出して読んだとき、最後の数行で急にしんとした気持ちになりました。
なんか、うまく言えないんですけど、映画のラストシーンみたいで。
レモンを使った料理やお菓子を楽しむ
詩を読んだあとはレモンを使ったものを口にしてみましょう。
紅茶にひと切れ浮かべるだけでも、香りが立ちます。
ちなみにレモン果汁には、肉の臭みを和らげたり、リンゴやアボカドの変色を抑えたりする働きがあります。
大げさなことをしなくても、「今日はレモンの日だから」と一品加えるだけで十分です。🍋
光太郎が供え続けたことを思えば小さくてもレモンを置く時間があるといいなと思います。
SNSやお店で発信するときの注意点
ブログやSNS、お店のPOPで紹介する場合は、命日にまつわる日なので明るさ一辺倒ではなく、少し敬意を込めた書き方が合うと感じます。
これは個人的な考えです。
そのうえで、年号や日付は先ほどの通り「1938年10月5日」に統一してください。
誤記が出回っていることを知っていれば間違いのない投稿ができます。
まとめ
- レモンの日は10月5日で高村光太郎の妻・智恵子の命日(1938年10月5日)に由来する日
- きっかけは『智恵子抄』に収められた詩「レモン哀歌」で、智恵子が亡くなる数時間前にレモンをかじる場面が描かれている
- 制定者や目的を示す明確な資料は私が確認できた範囲では見当たらない
- 1983年や10月3日といった誤記が出回っているため、正しくは「1938年10月5日」を確認する
- 光太郎は命日にレモンを供え続けたとされ、花巻や二本松では今もゆかりの取り組みが続いている
- 国産レモンの51パーセントは広島県産で、レモンの日に国産レモンを選ぶ楽しみ方もある
今日はぜひ、レモンをひとつ用意して詩を読む時間をつくってみてください。
いつものレモンが、少しだけ違って見えるはずです。

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