有無の日とは?由来や歴史を解説【5月25日】

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この記事を読めば「有無の日」が生まれた背景と、その日に深く関わる村上天皇の実像がわかります。

「有無の日」という言葉、聞いたことありますか?

5月25日に当たるこの日、名前だけ見ると何やら哲学的な感じもするんですが実は平安時代の天皇の命日に由来する、日本固有の雑節的な記念日なんです。

ちょっと不思議でしょう?

目次

有無の日とは何か

「有無の日」は毎年5月25日にあたる記念日(古来からの慣習に由来する特別な日)です。

「有無」は「うむ」ではなく、「ありなし」と読むのがポイント。

「急な事件(有)はあるか、ないか(無)」という意味合いが込められていて、要するに「今日は特別なことがなければ政務はお休み」という平安時代のしきたりを反映した呼び名なんです。

記念日を制定した団体や明確な制定年は現時点では不明で日本記念日協会への登録も確認されていないとされています。

なので、近現代に誰かがあえて「制定した」というよりも、古代の宮中慣習が名前として残り続けた、という方が実態に近いかもしれません。

由来は村上天皇の命日

村上天皇とはどんな人物か

「有無の日」の直接の由来は第62代天皇・村上天皇の忌日(命日)です。

村上天皇は延長4年(926年)6月2日に生まれ、康保4年(967年)旧暦5月25日に内裏清涼殿で42歳で崩御されました。

名は成明(なりあきら)。

第60代醍醐天皇の第14皇子で、母は藤原基経の娘・藤原穏子です。

皇位継承は複雑な経緯をたどっていて、もともと皇太子だった保明親王とその子・慶頼王が相次いで亡くなり、さらに兄の朱雀天皇にも男子がなかったため、946年(天慶9年)に即位することになります。

「急な事件以外は政治をしなかった」という伝承

有無の日の名前の根拠となっているのがこの伝承です。

平安時代、村上天皇の命日である旧暦5月25日には、急を要する事件がない限り、朝廷での政務をとりやめるという慣習があったとされています。

これを裏付ける史料が藤原宗忠の日記『中右記』の天仁元年(1108年)5月25日条。

「今日は官中に有無日と号し、強いて政を結せず」という記述があり、平安貴族たちがこの日を特別視していたことが読み取れます。

村上天皇の崩御から約140年後の記録に残っているということはこの慣習がかなり長く続いていたんだなと感じます。

天暦の治 村上天皇の政治的な評価

延喜・天暦の治とは何か

村上天皇の治世は「天暦の治」と呼ばれ、父・醍醐天皇の「延喜の治」とともに平安時代の理想的な政治の象徴として後世に語り継がれました。

946年の即位から967年の崩御まで、約21年間の在位期間中、村上天皇は摂政・関白を置かず、自ら親政を行いました。

この点が後世から高く評価されるわけです。

後に後醍醐天皇が「建武の新政」を進める際に延喜・天暦の治を理想とし、「後醍醐」という名前にもそのリスペクトが込められているという話は、なかなか印象深かったですね。

実態は摂関家との綱引き

ただ、ここが意外な真実というか。村上天皇の「親政」は、実態としては必ずしも天皇が主導権を握っていたわけではないんです。

関白こそ置かなかったものの、当時の政治を実際に仕切っていたのは左大臣の藤原実頼で政治の主導権は実質的に藤原氏の手にあったとされています。

当時は律令国家体制から王朝国家体制への移行期で、地方分権化が進み、中央集権的な天皇親政が難しくなっていた時代背景もあります。

「急な事件以外は政治をしなかった」という伝承も、こうした背景を踏まえると「政治への無関心」というよりは「藤原氏に実権を握られた天皇の姿」を反映している側面もあったんじゃないかな、と個人的には思っています。

延喜・天暦の治を「理想」として称揚したのは11世紀以降に藤原氏の権力がさらに肥大化し、昇進の見通しもたたなくなった中下級貴族たちだったという指摘もあり、ちょっと切ない話だなと思います。

文化人としての村上天皇

和歌と音楽への深い愛

政治的な評価には複雑な背景がある村上天皇ですが、文化・芸術への貢献は疑いようがありません。

951年(天暦5年)には梨壺に和歌所を設け、源順ら優れた歌人を集めて『後撰和歌集』の編纂を命じました。

これは平安中期の宮廷文学の重要な記録として、現代も評価されています。

さらに琵琶や琴を愛し、雅楽の保存・発展にも尽力したとされていて後の平安文化の土台を作った天皇の一人といえるんです。

鶯宿梅の故事

村上天皇の人柄を伝えるエピソードとして有名なのが「鶯宿梅(おうしゅくばい)」の故事です。

御所の梅が枯れてしまったため、評判の良かった紀貫之の娘・紀内侍の屋敷の梅を勅命で召し上げようとしたところ、

その梅の枝に「勅なればいともかしこし うぐひすの 宿はと問はばいかが答へむ」という歌が結んであったというお話です。

意訳すると「勅命ならば喜んで従います。でも、毎年やってくるあの鶯が『私の宿はどこへ行ったの?』と尋ねたら、何と答えればよいのでしょう」という、なんとも粋な一首。

これに深く感動した村上天皇はその梅の木に「鶯宿梅」と名付け、紀内侍の屋敷へ返したそうです。

風流というか、芸術家肌な天皇だったんだなという気がします。

「有無の日」の季語としての側面

夏の季語として残った言葉

「有無の日」は、俳句の世界では夏の季語として収録されています。

旧暦の5月25日は現代の暦の夏に当たるためで、コトバンク(精選版日本国語大辞典)にも「《季語・夏》」と明記されています。

つまり、この言葉は記念日としてだけでなく、日本語・文学の文脈でも息づいていることになります。日本の言葉の層の深さですよね。

まとめ

  • 「有無の日」は毎年5月25日、平安時代の第62代天皇・村上天皇の旧暦命日に由来する
  • 「有無」は「ありなし」と読み、「急な事件があるかないか」という意味合いを持つ
  • 平安時代、この日は急事がなければ朝廷の政務をとりやめる慣習があり、12世紀の日記『中右記』にもその記録が残っている
  • 村上天皇は「天暦の治」で称えられた天皇だが実態は藤原氏との複雑な関係があった
  • 和歌・雅楽・琵琶など文化芸術の愛好家としての側面が強く、『後撰和歌集』の編纂を命じた天皇でもある
  • 俳句の世界では夏の季語として現在も使われている
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