この記事を読めば「裏切りの日」の由来となった本能寺の変のすべてと、明智光秀の動機をめぐる最新の諸説までがよくわかります。
「6月2日が裏切りの日って聞いたけど、なんでそんな名前なんだろう?」
と思ったことはありませんか?実はこの記念日、日本史上でも最大級の衝撃事件に由来しているんです。
裏切りの日ってどんな日?
6月2日は1582年(天正10年)のこの日(旧暦)に起きた「本能寺の変」に由来する記念日です。
当時、天下統一を目前にしていた戦国武将・織田信長が家臣の明智光秀に奇襲を受け、自害を余儀なくされました。「信頼していた家臣に討たれた」という衝撃の事実が、「裏切り」という言葉と結びついて記念日の名前になっています。
記念日としての6月2日
日本には毎日のように記念日が存在しますが、この「裏切りの日」は特定の団体が制定したというよりも、本能寺の変の起きた旧暦日付けがそのまま語り継がれてきたものです。
ちなみに新暦に換算すると1582年6月21日にあたるんですが、「6月2日=本能寺の変の日」という認識が強いので、記念日は旧暦の日付でそのまま定着しています。
なんか、こういうとこが歴史の面白さですよね。
本能寺の変とは何が起きたのか
「裏切りの日」をちゃんと理解するにはまず本能寺の変そのものを知る必要があります。
事件当日、何が起きたのか
天正10年6月2日の夜明け前、明智光秀率いる約13,000の軍勢が老の坂峠を越えて京都に入りました。
「水色桔梗」の旗印を掲げた軍は数隊に分かれ、堀川通などを北上。
目指したのは「さいかちの木」に囲まれた本能寺でした。
信長はその頃、本能寺で茶会を開き、翌日に中国地方への出陣を控えてくつろいでいたといわれています。
近侍の森蘭丸から「明智の手勢と思われます」と告げられた信長は、「是非もなし」(仕方がない)とひと言だけ語り、自ら弓をとって応戦したものの力及ばず最終的に自害したと伝わっています。
当時の状況が生んだ隙
これは私も驚いたんですがあの事件が起きた瞬間、信長の周囲にいた有力武将はほとんどいなかったんです。
柴田勝家は北陸で上杉勢と対峙、羽柴秀吉は備中(岡山)で毛利軍と対峙、徳川家康は少人数で堺見物中。つまり織田家の主要な武将たちがみんな散り散りの状態だったんですね。
光秀にとってこれほど好条件が揃った瞬間はなかったでしょう。
意図してその日を狙ったのか、それともたまたまそういう状況が生まれたのか、ここもひとつの謎だったりします。

明智光秀はなぜ信長を裏切ったのか
正直に言うと明智光秀の動機は440年以上たった今でも確定していません。
これが「裏切りの日」をただの歴史的記念日にとどまらず、今も人々が語り続ける所以(ゆえん)だと思います。
ここでは主要な説を整理してみますね。
「怨恨説」 信長への恨みが原因?
江戸時代から長く信じられてきたのがこの説です。
信長の接待で失態を犯した光秀が激しく叱責されたとか、光秀の母が人質として殺されたとか。そういった話がドラマや小説で何度も描かれてきました。
ところが研究によるとこうした話のほとんどは後世の編纂物(フィクション含む)に書かれたもので、当時の同時代史料では確認できないとされています。
しかも本能寺の変の半年前に開かれた茶会では信長自筆の書を掲げる光秀の姿があり、直前まで関係は良好だったとも考えられるんですね。
「野望説」 天下を狙った?
戦後に歴史学者の高柳光寿氏が提唱したのが野望説で「光秀は天下を狙って謀反を起こした」というものです。怨恨説への反論として登場し、今も一定の支持があります。
ただ、これにも疑問があって。
天下を狙ったにしては本能寺の変後の光秀の動きがあまりにも無計画すぎるという指摘があります。
信長を討った後わずか11日で、秀吉に山崎の戦いで敗れてしまったわけですから。
「四国問題説」 研究が示す有力説
研究者の間で最も注目されているのがこの説です。
もともと信長は長宗我部元親に友好的で、四国の統一を認めていました。
ところが大坂の本願寺との戦いが終わると、信長は突然方針を変更。元親に対して「土佐以外は阿波の半国しか認めない」と一方的に通告したんです。
光秀は元親と信長の間の取次役を務めていただけにこの政策変更で完全に面目を失いました。
さらに、光秀の重臣・斎藤利三(さいとうとしみつ)が信長から切腹を命じられる事態も発生。
利三の義妹が元親の正室であり、利三の姪が元親の長男の正室という縁戚関係があったため、長宗我部を攻撃する事態は光秀にとって避けたくても避けられない状況に追い込まれていったわけです。

「黒幕説」 陰で操る者がいた?
「本能寺の変の黒幕は誰か」という議論も根強く残っています。主な説をざっくりまとめるとこんな感じです。
- 朝廷黒幕説
信長が天皇に譲位を迫ったり暦を訂正させようとしたりしていたため、朝廷が光秀をそそのかしたとする説 - 足利義昭黒幕説
信長に京都を追われた15代将軍が光秀を操り、室町幕府再興を目指したとする説(光秀の直筆書状で「義昭を京に迎えたい」と書かれていることが根拠の一つ) - 羽柴秀吉黒幕説
最も得をした秀吉が裏で光秀を動かしたとする説 - 徳川家康黒幕説
武田滅亡後に存在価値が薄れた家康が危機感から関与したとする説
ただ、これらはすべて状況証拠のみで足利義昭説以外は現在の研究者にほぼ支持されていません。
本能寺の変が歴史を変えた
「裏切りの日」として語られるこの事件が、その後の日本史をいかに変えたかも押さえておきたいところです。
秀吉の台頭と「中国大返し」
信長の死を知った羽柴秀吉は戦っていた毛利氏と電光石火の速さで講和を結び、現在の岡山市から京都まで約200kmをわずか10日で走破する「中国大返し」を敢行。
そのまま山崎の戦いで光秀を破りました。
この決断の速さと行動力が秀吉が信長の後継者として天下を掌握するきっかけとなり、豊臣政権誕生へとつながっていきます。
本能寺の変がなければ戦国時代の終わり方はまったく違っていたかもしれません。
信長の遺体は今も見つかっていない
これはちょっと驚いた話なんですが織田信長の遺体は現在に至るまで発見されていません。
本能寺が炎に包まれた際に消失したとも、側近によって秘密裏に持ち出されたとも言われますが、真相は不明のままです。遺
体が見つからないことで「実は生き延びたのでは」という伝説まで生まれるほど。
光秀はそもそもどんな人物だったのか
裏切り者のイメージが強い明智光秀ですが、実は織田家で最初に城持ち大名になった人物であり、公家や文化人との交流にも長けた教養人でした。
信長に見込まれて丹波国の攻略を命じられ、天正7年(1579年)に完了。
「丹波での光秀の働きは天下に面目をほどこした」と信長から称えられ、34万石の大領主へと上り詰めました。
重臣中の重臣だったからこそ、その「裏切り」が歴史に深く刻まれたんだと思います。
そうでなければ今もこんなに語り継がれることはなかったでしょう。
まとめ
- 「裏切りの日」は毎年6月2日、1582年(天正10年・旧暦)に起きた本能寺の変に由来する記念日
- 明智光秀率いる約13,000の軍が本能寺を急襲し、織田信長は「是非もなし」のひと言を残して自害
- 光秀の動機をめぐる主な説は「怨恨説」「野望説」「四国問題説」「黒幕説」の4つ。現在の研究では怨恨説は史料的根拠に乏しく、四国問題説が有力視されている
- 信長の遺体は今も見つかっておらず、謀反の真相ともども「日本史最大のミステリー」として残り続けている
- 本能寺の変が秀吉の台頭を招き、戦国時代の終焉と江戸時代への道筋を作った
History好きにとっては何度読んでも飽きない話ですし、ふとした日常のなかでも「今日って裏切りの日なんだ」と思うだけで、歴史ってぐっと身近に感じられるんじゃないかなと思います。

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