アンネの日記の日とは?由来や歴史を解説【6月12日】

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この記事を読めば6月12日が「アンネの日記の日」と呼ばれる理由や、アンネ・フランクの生涯と日記が世界に与えた影響まで、一通りわかるようになります。

「6月12日って何かあった日だっけ?」

と調べているた方にとって、この日はただの記念日ではなく、歴史の重みが詰まった一日なんです。

ナチスによる迫害の中、たった13歳の少女が書き始めた日記がなぜここまで世界中に読み継がれているのか──その背景をじっくり掘り下げてみましょう。

目次

アンネの日記の日とは

6月12日は「アンネの日記の日」、別名「日記の日」とも呼ばれる記念日です。

この日の由来はシンプルで、1942年6月12日に、ユダヤ系ドイツ人の少女アンネ・フランクが日記を書き始めたことにちなんで制定されました。

しかも、この6月12日はアンネ自身の13歳の誕生日でもあって、誕生日プレゼントとして父から贈られた日記帳に最初の一文をつづったのがこの日です。

誰が制定したのか

正直に言うと、「アンネの日記の日」という名称について「誰がいつ正式に制定した」という明確な制定者・制定団体はわかっていません。

歴史的な出来事の日付をそのまま記念日として語り継ぐ「語り継ぎ型記念日」のひとつとして、国内外の教育関係や報道の文脈で自然に定着した形です。

日本では「日記の日」と同義で使われることも多いですよ。

アンネ・フランクとはどんな少女だったのか

生い立ちとドイツからの脱出

アンネ・フランクの本名はアンネリース・マリー・フランク。1929年6月12日、ドイツのフランクフルトで父オットー・フランクと母エーディトの次女として生まれました。3歳年上の姉マルゴーとの4人家族でした。

ところが、アンネが4歳の1933年にナチス政権が成立。「このままドイツにいては危険だ」と感じた父オットーは、家族を連れてオランダのアムステルダムに移住しました。

一時期は比較的安定した生活を送っていたものの、1940年にドイツがオランダを占領するとユダヤ人への弾圧はアムステルダムにまで及ぶようになります。

隠れ家での生活

1942年7月9日、アンネの一家はナチスによるユダヤ人狩りを逃れるため、父の職場だったプリンセンフラハトの建物の奥にある「隠れ家(ヘット・アハテルハウス)」に身を隠します。

フランク一家4人にファン・ペルス一家3名、歯科医のフリッツ・プフェファーを加えた計8人での隠れ家生活の始まりです。

日記の記録期間は1942年6月12日から1944年8月1日まで、約2年間。

その間、アンネは食糧不足や不自由な生活、恐怖、思春期の葛藤、将来への希望を驚くほど率直な言葉で書き綴っていました。

逮捕から死去まで

1944年8月4日、密告によってゲシュタポ(ナチスの秘密警察)が隠れ家に踏み込み、8人全員が逮捕されました。

アンネは姉マルゴーとともにアウシュビッツへ、そののちベルゲン・ベルゼン強制収容所に移送されます。

そして1945年2月中旬から3月下旬頃、飢えとチフスによって15歳でその短い生涯を終えました。

収容所が解放されたのは1945年4月15日。アンネはそのわずか数週間前に息を引き取っていたんです。なんかもう、それだけで言葉が出ないですよね。

日記はどうやって世界に広まったのか

ミープ・ヒースによる保存

隠れ家がナチスに発見されたとき、父のオットーが生き残った唯一の家族です。

アンネの日記を救ったのはフランク一家を支援し続けたオーストリア系オランダ人女性、ミープ・ヒース(Miep Gies)でした。

ミープは隠れ家が摘発された後に残された日記と紙束を発見し、オットーに渡すために大切に保管します。彼女は2010年1月11日に100歳で亡くなるまで、長い間アンネの記録の語り部として活動し続けました。

ちなみに、日記の中でアンネはミープのことを「ミープ・ファン・サンテン」という偽名で記しています。

アンネ自身、日記が発見されたときのことを考えていたからかもしれません。

出版とベストセラーへの道

戦後、生き残ったオットーは娘の日記を読み、アンネが作家やジャーナリストを志望していたこと、隠れ家での生活を将来出版したいと考えていたことを知ります。

友人たちの後押しもあり、1947年6月25日にオランダで「後ろの家(Het Achterhuis)」として初版3000部が出版されました。

日本では1952年(昭和27年)12月10日に、文藝春秋から『光ほのかに アンネの日記』として刊行。

1971年には日本での発行部数が100万部を突破し、2015年時点で日本での累計発行部数は600万部近くに達し、国別ではアメリカに次いで世界第2位というからすごいですよね。

ユネスコ世界記憶遺産への登録

アンネの日記はただの一少女の記録にとどまらず、2009年にユネスコの「世界記憶遺産(Memory of the World Register)」に登録されました。

登録されたのはアンネが使った赤いチェック柄の最初の日記帳、第2・第3の日記帳、1944年5月以降に自ら書き直した数百枚のルーズリーフ、そして彼女のお話帳と美文帳です。

マグナ・カルタ(1215年のイギリスの法律文書)と同じ年に登録されたことからもこの日記がいかに世界的な記録として評価されているかがわかります。

なんか、一人の少女の個人的な日記が歴史的遺産として後世に残るって、あらためてすごいことだなと感じます。

日記の内容 アンネが書いたこととは

隠れ家でのリアルな日常

日記の中でアンネが記したのは食糧不足や物音を立てられない緊張感といった過酷な現実だけではありませんでした。

同居する家族との摩擦、10代らしい恋心、自分の将来への夢、戦争への怒りそういうまっすぐな感情が驚くほど生き生きとした文章で書かれていています。

個人的に印象深いのは「それでもすべてが良くなると信じている」という趣旨の一節で、あれだけの状況の中でポジティブな感情を保っていたアンネの強さには、読んでいて胸が苦しくなります。

封印されていたページの存在

実は、日記には長らく公開されなかった部分が存在していました。

父オットーが出版前に削除した箇所があり、1991年に「完全版(日本語版は1994年発売)」として追加内容が公開されています。

伏せられていた内容には母への複雑な感情や、身体的なことへの率直な記述が含まれていたとされています。

つまり、これまで広く知られていた「アンネの日記」は、完全版ではなかったんですよね。

「アンネの日記の日」に何を考えるか

6月12日に「アンネの日記の日」として振り返る意味は、単に「昔こんな少女がいた」という話にとどまりません。

アンネが日記を書き始めた1942年という年は、ホロコーストが最も激しかった時期と重なっていて、約600万人のユダヤ人が犠牲になった歴史の一部に彼女の記録があります。

現代の日本で、毎年この日を迎えるたびに「偏見や差別のない世界」というテーマを考えるきっかけになっているのは、アンネの日記が持つ力だと思うんですよね。

世界中で70以上の言語に翻訳され、読み継がれ続けているのは、その内容が今を生きる私たちの感情に響くからかもしれません。

まとめ

  • 6月12日は「アンネの日記の日」
    1942年のこの日、アンネ・フランクが13歳の誕生日に父から日記帳をもらい、書き始めたことに由来
  • 日記の記録期間は1942年6月12日〜1944年8月1日の約2年間でナチス占領下の隠れ家での生活が克明に記されている
  • アンネは1945年にベルゲン・ベルゼン強制収容所で15歳で死亡
    収容所解放のわずか数週間前
  • 日記は1947年にオランダで出版され、その後世界70以上の言語に翻訳されたベストセラーに
  • 日本では1952年に初めて翻訳出版、2015年時点での累計部数は600万部近く、国別世界第2位
  • 2009年にユネスコ世界記憶遺産に登録されて人類共通の記録として保護されている
  • 1994年に完全版が日本でも刊行されており、初出版時には含まれなかった記述が収録されている
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