この記事を読めば「薩摩の日」がなぜ6月17日なのか、その由来から幕末の日英関係まで一気にわかります。
「薩摩の日って何?」って調べてみると、意外とちゃんとした歴史的背景があって、個人的にはけっこう驚きました。
ただの語呂合わせの記念日じゃないんですよね。
日本の近代化にも直結している、思ったより重い話なんです。
薩摩の日はいつ?基本情報
6月17日は「薩摩の日」として知られる記念日です。
6月17日が「薩摩の日」になった理由
1866年(慶応2年)6月17日、イギリス公使ハリー・パークスが薩摩藩を公式訪問したことを記念して制定された日です。
薩摩藩といえば今の鹿児島県にあたる地域で、島津家が約700年にわたって統治してきた大藩でした。
ちなみに、一部の資料では「薩土盟約(薩摩藩と土佐藩の同盟)」の締結日だという説も見かけますが、多くのソースではハリー・パークスの薩摩訪問を由来としています。
どちらが正式な由来なのかは今のところはっきり断定できないのですが、ハリー・パークス訪問説を記載しているソースが圧倒的に多い印象です。
「薩摩」という地名と薩摩藩について
薩摩藩は現在の鹿児島県全域と宮崎県南部、さらに奄美群島・琉球国の一部まで支配した、石高90万石を誇る大藩でした。
鎌倉時代から幕末までほぼ700年間ずっと島津家が治め続けたという点もなかなか凄いんですよね。全国的に見てもかなり珍しいケースだと思います。
ハリー・パークスとは?訪問の背景
「ハリー・パークス」という名前、日本史の教科書ではそこまで大きく取り上げられないかもしれません。でも、幕末~明治維新の流れを大きく動かした人物として実はかなり重要な存在なんです。
第二代駐日英国公使ハリー・パークス
ハリー・パークスは第二代駐日英国公使で1866年に軍艦数隻を率いて鹿児島湾へ入港しました。
この訪問では藩主の島津茂久(忠義)、国父・島津久光、そして西郷隆盛、家老の新納久脩らとの会談が行われています。
パークスはこの鹿児島訪問を経て、薩摩藩を「将来の政権中枢候補」と本国への報告書に記したとされています。
実は当時の薩摩藩の立ち位置を、イギリスがかなり高く評価していたんですね。
この訪問が幕末の政局を動かすひとつの大きなピースになっていきます。
グラバーの仲介という面白い事実
パークスの薩摩訪問にはあのトーマス・グラバーが仲介役として関わっていたとされています。グ
ラバーといえば長崎のグラバー園が有名ですが、薩摩藩とイギリスの橋渡し役としても重要な存在でした。
日英の外交が、実は民間の商人の手を借りながら進んでいた──そういう構図、意外と知られていないと思います。
薩英戦争から友好関係へ 劇的な転換
ここが個人的に一番「歴史って面白い」と感じた部分です。
薩摩藩とイギリスはもともと戦争をした相手なんです。
生麦事件から薩英戦争へ
1862年、横浜近郊の生麦(現・神奈川県横浜市)でイギリス人商人と薩摩藩の行列が遭遇したことで「生麦事件」が起こります。
薩摩藩側がイギリス人を傷つけたとして、翌1863年にイギリス艦隊7隻が鹿児島に来航。砲撃戦、いわゆる「薩英戦争」へと発展しました。
この戦闘の結果が面白くて、イギリス側は旗艦の艦長を含む死者13名・負傷者50名。薩摩側は死者9名・負傷者9名と、イギリス側のほうが被害が大きかったという事実もあります。
まあ、「薩摩が勝った」と単純に言い切れるかどうかは諸説あるんですがイギリスが薩摩の実力を肌で実感した戦いだったのは確かです。
戦後から急速に深まった友好関係
戦争のあ、両者は交渉の場についた。
そこで起きたことが近代外交史でも特筆すべき出来事で、「戦ってみたら、むしろ組むべき相手だとわかった」という逆転の論理で関係が急速に好転していくんです。
イギリスは薩摩の統率力と応戦能力を高く評価。
薩摩藩はイギリスの軍事・工業力の優秀さを痛感し、むしろそこから積極的に学ぼうとします。
砲弾を撃ち合った相手が、数年で武器を買い合うパートナーになる…こういう展開ってなかなかないですよね。
薩摩藩遣英使節団と近代化への布石
パークスが薩摩を訪問した1866年の前年、薩摩藩はすでに大きな行動を起こしていました。
19名の密航留学生
1865年(慶応元年)、薩摩藩は当時まだ鎖国の影響が残るなか、五代友厚や松木弘安(後の寺島宗則)、森有礼など19名からなる「薩摩藩遣英使節団」をイギリスへ密航させます。
内訳は視察係3名、留学生15名、通訳1名。
一行はシンガポールやスエズを経由して約2ヶ月かけてロンドンに到着し、学生たちはロンドン大学で学んだとされています。
船上で髷(まげ)を切り落としたという話も残っていてなんかそのエピソードが妙にリアルで印象に残っています。
パークス訪問は「返礼」の意味もあった
1866年6月17日のパークス来訪はこの留学生派遣への「返礼訪問」という意味合いも持っていました。
薩摩藩主・島津久光の招きに応じる形で来訪したとも伝わっています。
つまり、この日はただの外交儀礼じゃなくて、留学→返礼訪問→明治維新への伏線という一連の「日英パイプ」が形になった瞬間でもあるんですよね。
薩摩の日に知っておきたいこと
旧暦と新暦のズレ問題
ここ、細かいんですが少し気になることがあって。慶応2年6月17日(旧暦)を現在の暦(新暦)に換算すると、7月28日にあたります。
「薩摩の日」は旧暦のままの6月17日を記念日としているわけで、厳密には「歴史的な出来事があった日のまま記念日にした」というかたちです。
歴史上の記念日にはこういう旧暦・新暦のズレがよくあるので覚えておくと雑学として面白いかもしれません。
仙厳園でのおもてなし
パークスが薩摩を訪問した際、鹿児島城の別邸である仙厳園(せんがんえん)で豪華なおもてなしをした記録が残っています。
仙厳園は現在も鹿児島市の観光名所として知られていて、実際に訪れると幕末の雰囲気をうっすらと感じられる場所です。
歴史好きにとってはこの日との繋がりを知ったうえで訪れるとまた違う見え方がするんじゃないかな、と思います。
まとめ
- 6月17日「薩摩の日」は1866年(慶応2年)にイギリス公使ハリー・パークスが薩摩藩を訪問したことに由来する記念日
- 薩摩藩は現在の鹿児島県全域にあたり、島津家が約700年統治した大藩
- 薩英戦争(1863年)での激突を経て双方が相手を評価し友好関係へ転換
- 1865年に薩摩藩は19名の遣英使節団を密航させており、パークスの訪問はその「返礼」の側面もあった
- 「慶応2年6月17日」は旧暦のため、新暦では7月28日にあたる
「戦った相手を尊敬してパートナーにする」という薩摩藩の柔軟さは、明治維新を成し遂げる底力に繋がっていたんだなと、改めて感じます。
6月17日に鹿児島や薩摩の歴史を少し振り返ってみると意外な発見があるかもしれませんよ。


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