ブルガリア独立宣言の日とは?由来や歴史を解説【9月22日】

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この記事を読めばブルガリアで毎年9月22日に祝われる独立宣言の日がどんな出来事だったのか、そしてなぜこの日付が選ばれたのかがわかります。

「東欧の祝日って聞いたことはあるけど、実際どういう経緯なのか知らない」

という方、けっこう多いんじゃないでしょうか。

調べる前は漠然としたイメージしかなかったんですが、掘り下げてみると当時のヨーロッパ外交の駆け引きが色濃く反映された、なかなか奥深い出来事だったんです。

目次

ブルガリア独立宣言の日とは何かをまず知ろう

ここではブルガリア独立宣言の日が具体的にどんな日なのか基本の部分を押さえていきます。

1908年9月22日に起きたこと

ブルガリア独立宣言の日は1908年9月22日に当時のブルガリア公フェルディナンドがオスマン帝国からの完全独立を宣言した日を記念するものです。

場所は旧首都ヴェリコ・タルノヴォにある聖四十人殉教者教会で、フェルディナンドはこの宣言と同時に「ツァール(皇帝)」の称号を名乗るようになりました。

ちなみにこの日はユリウス暦での日付でグレゴリオ暦だと10月5日にあたるそうです。

祝日としての位置づけ

現在この日はブルガリアの法定祝日として扱われていて、2025年の時点で117年目を迎えたと報じられています。

祝日として正式に定められたのは意外と最近で、1998年9月10日に国民議会(第38期)が決議したことがきっかけだったんですね。

宣言そのものから90年近く経ってようやく公式の休日になったというのはちょっと意外な事実かもしれません。

1878年のベルリン条約とブルガリアの立場

ここを読むと独立宣言に至るまでブルガリアがどんな立場に置かれていたのかがわかります。

露土戦争と自治公国の誕生

そもそもブルガリアは1877年から1878年にかけての露土戦争を経て、1878年のベルリン条約によって自治公国として復活しました。

ただ、このときのブルガリアは完全な独立国ではなく、オスマン帝国に対して名目上の宗主権を認めたいわば従属的な立場の公国だったんです。

形式的には貢納を続ける義務があり、外交面でも制約が多かったと言われています。

30年間続いた不完全な自立

面白いのは実際には自治公国になった1878年の時点からブルガリアはほぼ独立国として振る舞っていたという指摘があることです。

とはいえ国際法上はあくまでオスマン帝国の一部という扱いのままで、この宙ぶらりんな状態が約30年も続きました。

だからこそ1908年の宣言は実態と法的地位のズレをようやく解消する意味を持っていたと言えそうです。

1885年の統一とルメリア併合

ここでは独立宣言の下地となったもうひとつの重要な出来事を見ていきます。

東ルメリア州との統一

1885年9月6日、ブルガリア公国は南に隣接していた東ルメリア自治州と統一を果たしました。

この統一自体もベルリン条約が定めた分割状態を覆す動きで、ヨーロッパ列強のあいだで緊張を生んだ出来事だったんですね。

1908年の独立宣言のマニフェストの中でも、フェルディナンドは「1885年9月6日に統一されたブルガリア」という表現を使って独立を宣言しています。

統一と独立、この2つの節目がセットで語られることが多いのは、こういうつながりがあったからなんだなと納得しました。

1908年独立宣言までの経緯

ここを読むとなぜあのタイミングで独立宣言が実現したのかという背景がつかめます。

青年トルコ革命という好機

1908年、オスマン帝国内で青年トルコ革命が起こり、帝国全体が政治的な混乱に陥りました。

この不安定さがブルガリアにとって独立を実行に移す絶好の機会になったというのが、複数の資料で共通して語られている見方です。

個人的にはこういう「相手の弱みにつけこむ」ような外交判断が、当時のヨーロッパでは普通に行われていたんだなと感じました。

オーストリア=ハンガリーとの連携

さらに大きかったのが、オーストリア=ハンガリー帝国によるボスニア・ヘルツェゴビナ併合の動きです。

この併合もベルリン条約に違反する行為だったため、ブルガリアはこのタイミングに合わせて自国の独立宣言を行うことで国際的な非難を分散させる、いわば連携した外交戦略を取ったとされています。

ブルガリア政府が正式に独立宣言を決断したのは1908年9月16日で、当初は9月21日に発表する予定だったものが、実際には翌22日にずれ込んだそうです。

9月22日に何が起きたのか

ここでは宣言当日の具体的な出来事をもう少し詳しく整理していきます。

ヴェリコ・タルノヴォでの式典

9月21日にフェルディナンドはルセに到着し、翌9月22日にヴェリコ・タルノヴォへ入りました。

当日は軍楽隊を先頭に第18エタル歩兵連隊と第20ドブルジャ歩兵連隊がメインストリートを行進し、聖四十人殉教者教会へと向かう、けっこう厳かな式典だったようです。

教会での式典の後、フェルディナンドがマニフェストを読み上げて独立を宣言しました。

マニフェストの内容と当時の政権

このマニフェストには当時のミニストル・プレジデント(首相)アレクサンダル・マリノフや、外務大臣ステファン・パプリコフといった閣僚の署名も添えられていたと記録に残っています。

ヴェリコ・タルノヴォ歴史博物館のイヴァン・ツロフ博士は、この宣言によって

「ブルガリアは他のすべての国と法的に対等な国家となり、完全な主権を獲得した」

と説明しています。

ただ、実質的な主権の一部はそれ以前から非公式に行使されていた面もあるとも付け加えているんですね。

独立宣言後の国際社会の反応

ここを読むと宣言がすぐに認められたわけではなかったことがわかります。

オスマン帝国と列強の対応

宣言直後、オスマン政府(スブリム・ポルト)はすぐには受け入れず、しばらく外交的な緊張が続きました。

それでも最終的にはオスマン帝国、そしてオーストリア=ハンガリー、イギリス、フランス、ドイツといった列強が正式にブルガリアの独立を承認する流れになりました。

国際的な承認が完全に固まったのは1909年の春だったとされています。

宣言から承認まで半年ほどかかった計算になりますね。

「第三次ブルガリア王国」の成立

この独立宣言によって、ブルガリアは正式に「第三次ブルガリア王国」として国際社会に位置づけられるようになりました。

フェルディナンドはそれまでの「クニャズ(公)」から「ツァール」へと称号を変え、ブルガリアは公国から王国(帝国的な意味合いを含む王国)へと格上げされたわけです。

5世紀にわたるオスマン支配からの解放という文脈で語られることも多く、ブルガリア国内では歴史的な悲願の達成として受け止められたようです。

なぜ9月22日が正式な祝日になったのか

ここでは宣言から90年後に祝日化された経緯を見ていきます。

1998年の国民議会決議

先ほども触れたとおり、9月22日が正式な国家的祝日になったのは1998年9月10日、第38期国民議会での決議によるものでした。

宣言そのものから数えると、実に90年もの歳月が流れていたことになります。

なぜそんなに時間がかかったのか、正直はっきりした理由を明記した資料は見つけられなかったんですが、社会主義体制下では王制時代の出来事を公式に祝いにくい事情があったのではないか、というのが私の考えです。

あくまで推測の域は出ませんが体制転換後の1990年代になってようやく歴史の見直しが進んだ、という時代背景と重なる部分は大きいように感じます。

長らく評価されなかった出来事

一部の資料ではこの出来事の近現代史における重要性が長い間十分に認識されてこなかった、という趣旨の記述もありました。

祝日化がこれほど遅れたこと自体がブルガリアの歴史認識がいかに複雑な道をたどってきたかを物語っているように思います。

現在のブルガリアでの祝われ方

ここではブルガリア独立宣言の日が今どのように祝われているかを紹介します。

ヴェリコ・タルノヴォでの記念行事

現在も独立宣言の日の記念式典は宣言の舞台となったヴェリコ・タルノヴォで開かれることが伝統になっています。

式典は9月22日の夜に行われることが多く、当時の宣言の様子を再現するような催しも行われているようです。

宣言から100年以上経った今でも、この場所が特別な意味を持ち続けている点は、地域の歴史への誇りの強さを感じさせますね。

学校や公的機関での扱い

法定祝日ということもあり、公的機関や学校ではこの日にちなんだ行事や授業が行われることも多いようです。

国全体でこの日を「ただの休みの日ではなく、自由の重みを振り返る日」として位置づける姿勢が、複数の公式な報道で繰り返し強調されている印象を受けました。

まとめ

ブルガリア独立宣言の日についてここまでの内容を簡単に振り返ってみますね。

  • 1908年9月22日、フェルディナンド公がヴェリコ・タルノヴォの聖四十人殉教者教会でオスマン帝国からの独立を宣言し、自らツァールを名乗った
  • 背景には1878年のベルリン条約による従属的な自治公国という立場と、1885年の東ルメリアとの統一という2つの歴史的経緯があった
  • 青年トルコ革命による混乱と、オーストリア=ハンガリーのボスニア・ヘルツェゴビナ併合というタイミングを利用した外交戦略だった
  • 国際的な正式承認は1909年春までかかり、その後ブルガリアは第三次ブルガリア王国として歩み始めた
  • 祝日として正式に制定されたのは1998年9月10日で、宣言から90年もの時間差があった

歴史の教科書ではさらっと流されがちな出来事かもしれませんがこうして経緯を追ってみると、当時のヨーロッパ列強の思惑や小国ブルガリアの粘り強い外交判断が透けて見えて、なかなか読み応えのある歴史だったなと感じました。

9月22日にブルガリアのニュースを目にする機会があったら、こうした背景を思い出してもらえたら嬉しいです。

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