この記事を読めば8月23日がなぜ白虎隊自刃の日と呼ばれているのか、その由来や当時の状況、そして今もなお会津で語り継がれている理由まで、ひとつずつ丁寧にわかるようになると思います。
歴史の教科書でちらっと見た記憶はあるけど詳しい経緯までは知らないという方、けっこう多いんじゃないでしょうか。
今回はそんな方に向けてできるだけわかりやすく整理してみました。
白虎隊自刃の日とは何を指すのか
まずは8月23日という日付そのものが何を意味しているのか、簡単に押さえておきます。
慶応4年8月23日に起きた出来事
白虎隊自刃の日というのは戊辰戦争のさなか、会津藩の少年部隊であった白虎隊の隊士たちが、飯盛山でみずから命を絶った日にあたります。
慶応4年8月23日、新暦に直すと1868年10月8日のことなんですね。
この日、士中二番隊に属していた少年たちが追い詰められた末に自刃という選択をしたことが、のちに会津戦争を象徴する悲劇として語られるようになりました。
なぜ命日が記念日として扱われるのか
正直なところ記念日という言葉から明るいイベントを想像してしまう人もいるかもしれませんが、これはそういう意味ではありません。
追悼の意を示し、事実を後世に語り継ぐために設けられた日という位置づけなんです。
未来ある若者たちが命を落としたという戦争の虚しさを伝える意味合いが強くて、地元の会津若松では今でも慰霊の行事が続いています。
白虎隊とはどんな部隊だったのか
ここでは白虎隊そのものの成り立ちを見ていきます。
少年兵というイメージだけで終わらせず、なぜそんな部隊が組織されたのかまで掘ってみますね。
16歳から17歳の少年たちで構成された部隊
白虎隊は戊辰戦争に際して会津藩が編成した部隊で、数え年16歳から17歳の武家の子弟によって構成されていました。
会津藩は当時、軍を年齢別に白虎、朱雀、青龍、玄武という4つの部隊に分けていて、その中で最年少の班が白虎隊だったんです。
名前の由来は中国の伝説上の神獣、白虎から取られているとされていて、方位や季節を司る霊獣として西を守る存在とされているそうです。
本来は予備兵力だったという事実
ちょっと意外に思う方もいるかもしれませんが白虎隊はもともと実戦に出す想定ではなく、予備兵力として組織された部隊だったんですね。
ところが戦況が悪化していくなかで、予備であるはずの少年たちまで前線に投入されることになってしまいます。
年齢を偽って志願した15歳未満の少年もいたと言われていて、家や藩への忠義を重んじる当時の価値観がにじんでいるように感じます。
戸ノ口原の戦いから飯盛山までの経緯
自刃に至るまでの実際の行動を時系列で追っていきます。ここが一番、事実として詳しく知られていない部分かもしれません。
出陣から日向隊長との別れまで
慶応4年8月22日、白虎隊は佐川官兵衛の指揮のもと、奇勝隊や敢死隊など約250人とともに戸ノ口原、十六橋方面へ進軍しました。
その日の夜10時ごろ、隊長の日向内記が食糧調達のために離れたまま戻ってこないという事態が起きます。
指揮官を欠いたまま夜を明かすことになった少年たちの心境は想像するだけでもかなり辛いものだったんじゃないかなと思います。
篠田儀三郎の号令による銃撃戦
翌23日の早朝5時ごろ、小隊長の篠田儀三郎の号令で新政府軍に一斉射撃を開始しますが、銃身が熱くなるほどの激しい戦いになり、次第に苦戦していきます。
負傷者も出るなかで隊は撤退を余儀なくされ、生き残った者たちが飯盛山へと落ち延びていくことになりました。
飯盛山で目にした煙が誤解を生んだ
飯盛山にたどり着いた少年たちが目にしたのは会津若松城のあたりから立ち上る黒煙でした。
彼らはこれを自分たちの本拠地である鶴ヶ城が落城した煙だと思い込んでしまうんですね。
実際には城下町が燃えていただけで、鶴ヶ城そのものは落城していなかったというのが現在ではほぼ定説になっています。
ただ、当時の状況で正確な判断をするのはかなり難しかったはずで、無理もない誤解だったと個人的には感じます。
自刃の経緯と諸説ある人数
このあたりが白虎隊の話の中でも一番よく知られている部分だと思うんですが、実は人数についてはいくつかの説があって意外とはっきりしていない部分も多いんです。
篠田の提案から自刃の決意まで
主君や祖先に申し訳が立たない、敵に捕らわれて屈辱を受けるよりは潔く自刃すべきだ、という篠田儀三郎の案に少年たちが賛同し、自刃という道を選んだと伝えられています。
慶応4年8月23日午前10時から11時ごろにかけて、飯盛山で少年たちが次々と自らの命を絶っていきました。
20人説と17人説、16人説の違い
ここが正直ちょっと複雑なところです。
定説としては20人が自刃を決行し、19人が死亡、1人だけが生き残ったとされています。
飯盛山にある白虎隊十九士の墓も、この19人という数字に基づいているんですね。
一方で唯一の生存者である飯沼貞吉自身の証言によると、自刃したのは自分を含めて16人だったとする説もあります。
さらに研究者によっては、当初16人が自刃し、少し遅れて到着した石山虎之助を含む1人が加わって計17人になったという整理もされています。
数字にばらつきがあるのは当時の混乱した状況や、証言そのものが数十年後になってようやく語られたことも関係しているのかなと自分では思っています。
出陣者全体で見た犠牲者数
士中二番隊としてもともと出陣したのは37人から42人程度とされていて、飯盛山にたどり着いたのはそのうちの一部だけでした。
飯盛山には自刃した十九士に加えて、各地で戦死した31人の白虎隊士、さらに同時期に亡くなった62人にも及ぶ少年武士らも祀られているんです。
この数字を見ると飯盛山の悲劇だけが白虎隊のすべてではなくて、もっと広い範囲で若い命が失われていたんだなと、あらためて重みを感じます。
唯一の生存者飯沼貞吉が伝えた真実
自刃した少年たちの中でたった一人生き残った人物がいます。この人がいなければ白虎隊の話はまったく違う形で伝わっていたかもしれません。
喉を突いたが致命傷にならなかった経緯
飯沼貞吉は自らの喉を刀で突いて自決を試みましたが刀が思うように鋭くなかったのか致命傷には至らず、そのまま気を失ってしまいました。
しばらくして地元の農民、印出ハツという女性らに発見され、介抱されて命をつなぐことになります。
電信技師として生きた後半生
蘇生した貞吉はのちに名前を貞雄に改め、工部省に所属して電信技師として活躍しました。
日清戦争にも従軍したという記録が残っていて、少年時代の壮絶な体験を経てなお、新しい時代の技術者として生きていったというのはなんというか、けっこう胸に来るものがあります。
昭和6年、1931年に仙台で亡くなり、墓は仙台市の輪王寺と飯盛山の両方にあるそうです。
彼が生き残ってくれたからこそ、白虎隊の出来事が具体的な証言として現代まで伝わっているというのは、間違いなく大きな意味を持っていると思います。
現在も続く飯盛山の慰霊行事
白虎隊自刃の日はただの歴史上の出来事としてだけでなく、今も会津の地で実際に受け継がれている行事があります。
白虎隊墓前祭という毎年の慰霊祭
飯盛山では白虎隊十九士の墓前で慰霊祭が行われていて、会津高校の生徒による白虎隊剣舞の奉納も恒例になっています。
剣舞を見た人の感想を見かけることがあるんですが、少年たちの姿を現代の若い世代が演じることで、時代を超えて何かがつながっているような、そんな印象を持つ方が多いみたいです。
さざえ堂をライトアップする鎮魂祭
平成30年からは8月23日前後にさざえ堂をライトアップする鎮魂祭も実施されています。
白虎隊士や戊辰戦争で亡くなった人々の霊を鎮め、地域に平和の大切さを伝えることを目的として、毎年続けられているそうです。
普段は見られない幻想的にライトアップされたさざえ堂の姿は、慰霊という意味合いを超えて、訪れる人にとって特別な景色になっているんじゃないかなと思います。
まとめ
白虎隊自刃の日について要点を整理しておきます。
- 8月23日は慶応4年、新暦1868年10月8日に白虎隊士中二番隊が飯盛山で自刃した日にあたる
- 白虎隊は16歳から17歳の少年で構成された本来は予備兵力の部隊だった
- 飯盛山で見た煙を城の落城と誤解したことが自刃の直接的な原因とされている
- 自刃した人数には20人説、17人説、16人説など複数の説があり、はっきりとは確定していない
- 唯一の生存者飯沼貞吉の証言が後世に真実を伝える大きな役割を果たした
- 飯盛山では白虎隊墓前祭や鎮魂祭が毎年行われている
数字や証言に多少のばらつきはあるものの、少年たちが置かれた状況の切実さそのものはどの資料を見ても変わらないように感じます。
8月23日という日付を目にしたとき、こうした背景を思い出してもらえたら嬉しいなと思います🙏

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