福島県に住んでいる方なら一度は耳にしたことがあると思うんですが、毎年8月21日は「福島県民の日」なんです。
この記事を読めばこの日がなぜ生まれたのか、どんな歴史的な出来事に基づいているのかがしっかりわかると思います。
学校の宿題で調べることになった方や、単純に「なんでこの日なんだろう」と気になった方にも、丁寧に解説していきますね。
福島県民の日とは何か
まずは基本のところから押さえていきましょう。
福島県民の日というのは福島県が条例で定めた記念日で、県民が郷土への理解を深めるために設けられたものなんです。
8月21日に定められている理由
福島県民の日は8月21日です。
これは明治9年、つまり1876年の8月21日に、旧福島県・磐前県・若松県という3つの県が合併して、現在とほぼ同じ姿の福島県が誕生したことにちなんでいます。
要するに、この日は福島県の「誕生日」みたいなものなんですね。
県のホームページでも「福島県ができた日」という表現がされていて、ただの記念日というより県のルーツそのものを示す日という感じがします。
制定されたのは意外と最近だった
ここ、けっこう知られていない気がするんですが福島県民の日そのものは平成9年、つまり1997年に条例で制定されたものなんです。
明治9年の出来事から数えると、実に120年以上経ってから記念日として制定されたことになります。
なぜこのタイミングだったのかは県の公式発表からは細かく説明されていないんですが、平成の時代に入って地方分権や郷土教育への関心が高まっていた流れの中で、県のアイデンティティを再確認する動きの一環だったのかもしれません。
あくまでこれは私の見立てなのでその点はご了承ください。
福島県民の日の由来と歴史
なぜ1876年8月21日という日が選ばれたのか、その背景にある明治政府の統治政策を掘っていきます。
廃藩置県から府県統合へ
福島県の歴史をさかのぼると、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県がスタート地点になります。
この時点で会津地方は「若松県」として独立していました。
もともと会津藩だった地域が藩から県へと生まれ変わったわけですね。
同じ年の11月には浜通り地方にあった複数の県が統合されて「平県」が生まれ、その後すぐに「磐前県」へと改称されています。
中通り地方には別の福島県(第2次)が存在していて、この時点ではまだ3つの県がバラバラに存在していたんです。
3県が合併して現在の福島県になった瞬間
そして明治9年(1876年)8月21日、第2次府県統合という明治政府の方針によって若松県・磐前県・旧福島県の3県がひとつに統合されました。
この時、明治政府の右大臣だった岩倉具視から、若松県と磐前県を廃止して福島県がその土地と人を引き受けるようにという命令書が出されているんですね。
この文書の原本は今も福島県歴史資料館に保存されているそうで、まさに現在の福島県が生まれた瞬間を記録した歴史資料なんです。
ちなみに磐前県のうち刈田郡・伊具郡・亘理郡は宮城県に復帰していて合併は単純な足し算ではなかったという点もちょっと面白いなと思いました。
なぜ県庁は福島市に置かれたのか
この合併の際、県庁は旧福島県の庁舎があった場所にそのまま留め置かれることになりました。
現在、県庁所在地というと地理的に中央にある郡山市の方がイメージされやすいかもしれませんが、実際には旧福島県時代の県庁がそのまま使われ続けたことが今の福島市が県庁所在地である理由なんです。
個人的にはこういう歴史の積み重ねが今の行政区分にそのまま影響しているのが印象深かったです。
福島県民の日の背景にある3つの県の個性
各地域がどんな県だったのかを知ると福島県が複数の地域性を束ねてできた県だということが見えてきます。
若松県は会津地方の後身
若松県は主に現在の会津地方と新潟県の東蒲原郡にあたる地域を管轄していました。
もともとは会津藩の領地で戊辰戦争で敗れた会津藩の歴史を背負った地域なんですね。
斗南藩なども関係していて会津のアイデンティティが今も強く残っているのは、こうした背景があるからなのかもしれません。
磐前県は浜通り地方に対応
磐前県は現在の浜通り地方にほぼ対応する県で、県庁は平(現在のいわき市)に置かれていました。
もとは磐城平・湯長谷・泉・棚倉・三春・中村といった複数の県が統合されてできた「平県」が改称されたもので、明治4年から明治9年までのわずか5年ほどしか存在しなかった県だったんです。
旧福島県は中通り地方が中心
旧福島県(第2次)は中通り地方を中心とした県で県庁が現在の福島市にあったことから、後の福島県の名称と県庁所在地をそのまま引き継ぐ形になりました。
この3つの県それぞれに異なる歴史と地域性があったことを考えると、福島県が今でも「会津」「中通り」「浜通り」という3つの地域性を強く残しているのも、けっこう自然なことだなと感じます。
2026年は合併150周年という特別な年
150年という節目のタイミング
1876年の合併からちょうど150年目にあたるのが2026年なんです。
2026年8月21日はまさに現在の福島県が誕生してから150周年という節目の日になります。
こういう区切りの年は県内各地でいつもより特別な取り組みが行われることが多いので、ふるさとの歴史を振り返るにはとてもいいタイミングだと思います。
地域の境界線をめぐる考え方の変化
150年前のこの合併は県同士が対等な話し合いで一つになったわけではなく、明治政府主導の府県統合の中で若松県と磐前県が廃止され、福島県に組み込まれる形で実現したものだったんです。
この150年間、市町村合併などを通じて行政の境界線は減っていく方向に進んできましたがこれから人口減少の時代を迎える中で、境界線を減らすことだけが正解とは限らないのではという指摘もあります。
あくまで一つの視点ですが150周年という節目だからこそ、こうした歴史の意味を改めて考えるきっかけになるのかもしれませんね。
福島県民の日に行われる無料開放イベント
実際にこの日をどう楽しめるのか、具体的なイベント情報をまとめました。
県内施設が無料になる仕組み
福島県民の日を中心に、県内の博物館や美術館などの公共施設が無料開放されるのが毎年の恒例になっています。
令和7年度(2025年度)でこの取り組みは29回目を迎えていて、県北・県中・県南・会津・南会津・相双の各地方でそれぞれ対象施設が公開されています。
2026年の具体的な開放施設
2026年の情報を見てみると会津地方では福島県立博物館の常設展が無料になったり、天鏡閣で限定イベントが開催されたりするようです。
県北地方では福島県立美術館の常設展が無料になり、二本松市では二本松歴史館や智恵子記念館なども対象になっています。
相双地域では相馬市歴史資料収蔵館や南相馬市博物館なども無料開放の対象で、地域ごとにけっこう幅広く施設が用意されている印象です。
福島県民の日の裏にある自由民権運動の歴史
由来だけでなく合併後の福島県がどんな歩みをたどったのかも知っておくと、この記念日への理解がぐっと深まると思います。
河野広中と福島事件
福島県が誕生した後、明治14年(1881年)には河野広中らによって福島自由党が結成され、県内で自由民権運動が盛り上がりました。
しかし翌明治15年(1882年)、県令として着任した三島通庸が会津三方道路の工事を強引に進めようとしたことで河野広中らとの対立が激化していったんです。
弾圧事件としての福島事件
この対立は最終的に河野ら自由党幹部25名が逮捕される「福島事件」へと発展しました。
さらに県内各地で自由党員や協力者200名以上が捕らえられ、58名が東京に送られて、河野ら7名が有罪判決を受けています。こ
れは自由民権運動における最初期の大きな弾圧事件のひとつとされていて、福島県が誕生してからわずか6年ほどでこれほど激しい政治対立が起きていたというのは正直けっこう驚きました。
郷土愛を育むための記念日の背景にはこういう激動の歴史もあったんですね。

まとめ
福島県民の日について、由来から歴史的な背景まで見てきました。最後に要点を整理しておきますね。
- 福島県民の日は8月21日で1997年に条例で制定された記念日
- 由来は1876年8月21日に旧福島県・磐前県・若松県の3県が合併して現在の福島県が誕生したこと
- 3県それぞれ会津・浜通り・中通りという異なる地域性を持っていた
- 2026年は合併からちょうど150周年という特別な節目の年
- 毎年この日を中心に県内の博物館や美術館などが無料開放される
- 福島県誕生後には河野広中らによる自由民権運動と福島事件という歴史も存在する
150年という長い時間をかけて今の福島県ができあがったんだなと考えると、なんだか感慨深いものがありますよね。
この記念日をきっかけにぜひお近くの資料館や博物館に足を運んでみてはいかがでしょうか。
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