この記事を読めば4月30日が「桓武天皇即位の日」と呼ばれる理由から即位の歴史的背景、桓武天皇が日本史に与えた影響までまるごとわかります。
「4月30日って何かあったっけ?」
と気になってこのページを開いた方、実はこの日、日本の歴史を大きく動かした天皇の即位があったんです。
その天皇の名前は桓武天皇(かんむてんのう)。平安京を生み出したあの人物です。
4月30日が「桓武天皇即位の日」な理由
なぜ4月30日が桓武天皇の即位日として記録されているのか、その基本的な事実を整理しています。
旧暦・新暦の対応関係
桓武天皇が父・光仁天皇(こうにんてんのう)から皇位を受け継いだのは天応元年4月3日のこと。これをグレゴリオ暦(現在使っている太陽暦)に換算すると、781年4月30日になります。
旧暦と新暦ではおよそ1〜2ヶ月のずれが生じるので歴史の教科書で「781年即位」とだけ書かれているのに、具体的な日付が4月30日というのは、こういった暦換算の結果なんです。
ちなみに、正式な即位の礼(即位式)はその11日後にあたる5月12日(天応元年4月15日)に行われています。
在位期間の長さと歴史的重み
桓武天皇の在位期間は781年4月30日〜806年4月9日の約25年間。
これだけの長い在位の中で都を2度も移し、東北の蝦夷(えぞ)との戦いを続けた天皇でもあります。要するに、4月30日はそういった壮大な時代の「幕開けの日」でもあるわけです。
桓武天皇とはどんな人物?
桓武天皇の人物像を知ることでこの即位がいかに特別だったかがよりリアルに伝わってきます。
出自と生い立ち
本名は山部親王(やまべのみこ)。
737年(一部資料では736年)に生まれ、父は光仁天皇、母は高野新笠(たかののにいがさ)です。
天智天皇の系統というかなりの名門の父を持つ一方で、母が渡来系氏族の出身だったため、当初は皇族の中でもやや複雑な立場にありました。
45歳での即位というのも当時としてはかなり遅め。長い年月を「皇太子待機」の状態で過ごしたんだなと思うと、なんとなく感慨深くなりますよね。
渡来系の血を引く母・高野新笠
桓武天皇の母・高野新笠は百済系渡来人の和氏(やまとのうじ)出身とされています。
百済は現在の朝鮮半島にあった国で高野新笠は百済武寧王の子孫にあたるとも伝わっています。
これが当時の宮廷では問題視されていたんです。
母親の身分が低い=皇子の位も上がりにくいという現実があって山部親王が皇太子になるには、強力な後ろ盾が必要でした。
即位までの困難な道のり
スムーズに即位したように見えて実は紆余曲折があったこの経緯、けっこう知られていないかもしれません。
皇太子就任のきっかけ
770年(宝亀元年)、称徳天皇(しょうとくてんのう)が亡くなり、天武天皇の皇統が途絶えます。
新たに即位したのが天智天皇の孫・光仁天皇でした。
そこで皇后に井上内親王、皇太子に他戸親王(おさべのみこ)母子が迎えられたのですが、この二人が「のろい」をかけたとして幽閉・廃位に。
そのあとに皇太子として浮上したのが山部親王。のちの桓武天皇です。
藤原百川の政治的後押し
渡来系の血筋を持つという不利な条件があったにもかかわらず山部親王が皇太子に就任できたのは、藤原百川(ふじわらのももかわ)ら有力者の後押しがあったからとされています。
政治の世界って実力だけじゃなくて人脈も大事なんですよね…。
781年(天応元年)、光仁天皇から譲位を受けた山部親王は、45歳にして第50代天皇・桓武天皇として即位しました。
即位の年「781年」に込められた意味
この年、ただ天皇が代わっただけじゃなく思想的にも大きな意味が込められていたんです。
辛酉革命(しんゆうかくめい)と781年
781年は干支でいう辛酉(かのと・とり)の年。中国の思想では辛酉の年は「革命が起きる年」だと信じられていました(辛酉革命)。
この年に即位したことは偶然ではなく、「新しい時代の幕開けにふさわしい人物が、ふさわしい年に即位した」という演出でもあったとも言われています。
もっとも当時の桓武天皇の立場を考えると、「そうでもしなければ認められなかった」という事情もあったようで、なんとも複雑な心境だったんじゃないかなとも思います。
桓武天皇の即位後の主な業績
即位してからの桓武天皇はとにかく行動力がすごかった。
平城京から平安京へ。2度の遷都
即位後、桓武天皇が最初に取り組んだ大事業が遷都です。
当時の平城京(奈良)では仏教寺院が政治に強い影響力を持っていて天皇主導の政治を取り戻すのが難しい状況でした。
そこでまず784年(延暦3年)に長岡京(現在の京都府向日市・長岡京市あたり)へ遷都。
しかしここでは藤原種継暗殺事件や弟・早良親王の怨霊(詳しくは後述)など、不幸な出来事が続いたため、わずか10年ほどで再遷都を決断します。
そうして794年(延暦13年)に完成したのが、平安京(現在の京都市)。
以後1000年以上にわたって日本の都となり、「平安時代」という名前の由来にもなった場所です。
坂上田村麻呂と蝦夷征討
もうひとつの大きな業績が東北地方の蝦夷(えみし)との戦いです。
桓武天皇は坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍に任命し、東北への遠征を重ねて律令国家の版図を北へと広げました。
早良親王の悲劇と桓武天皇の苦悩
華々しい業績の一方で桓武天皇には生涯つきまとった「影」がありました。
弟・早良親王の悲劇
桓武天皇が即位した翌日、同母弟の早良親王(さわらのみこ)が皇太子に立てられました。
しかしその後、藤原種継暗殺への関与を疑われ、早良親王は無実を主張しつつも淡路島へ流される途中に絶食して亡くなります。
亡くなった後、皇族や近しい人物が相次いで病死や変死したため、「早良親王の怨霊のせいだ」という噂が広まりました。長
岡京から平安京への再遷都にも、この怨霊から逃れたいという理由がひとつあったとも言われています。
実際、早良親王は死後に崇道天皇(すどうてんのう)という天皇号を贈られています。
これはある意味、兄・桓武天皇の「罪悪感」の表れだったのかもと個人的には思います。
まとめ:4月30日は日本の歴史が動いた日
- 4月30日は、旧暦「天応元年4月3日」をグレゴリオ暦に換算した日付で、桓武天皇が第50代天皇として皇位を継承した日にあたる
- 桓武天皇(本名:山部親王)は737年生まれ、母・高野新笠は百済系渡来人の出身で、その血筋ゆえに即位には政治的な後押しが必要だった
- 即位の年・781年は辛酉の年で、「革命の年」という思想的意味を持っていた
- 在位中に長岡京・平安京という2度の遷都を実行し、約1200年続く「京都」の歴史を作った
- 征夷大将軍・坂上田村麻呂を派遣し、東北の蝦夷との戦いでも日本の版図を広げた
- 弟・早良親王の死という心の傷を抱えながら、約25年間在位し続けた
4月30日という日付、令和元年(2019年)には平成の天皇陛下が退位された日でもありますよね。奇しくも1238年を隔てて、天皇の「時代の幕開け・幕閉じ」が重なるというのは、なんとも不思議な縁だなと感じます。

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