8月22日は「金シャチの日」なんです。
この記事を読めば金シャチの日がどうやって生まれたのか、そして名古屋城の金鯱そのものの歴史まで、まるっと分かるようになっていますよ。
「金シャチの日って聞いたことあるけど、実際どんな記念日なんだろう」
「名古屋城の金鯱にはどんな歴史があるの」
って気になっている方、けっこう多いんじゃないでしょうか。
地元の方はもちろん、名古屋観光を予定している方にも役立つ内容になっていると思います。
金シャチの日はいつで誰が制定したの
まずは基本情報からいきますね。ここを読むと、金シャチの日の日付と制定した人物がはっきり分かります。
8月22日という日付の理由
金シャチの日は毎年8月22日です。
日本記念日協会にちゃんと認定・登録されている記念日なんですよ。
日付の由来がなかなか凝っていて面白いなと思いました。
名古屋市の市章が「まるはち」、つまり丸に八の字を組み合わせたデザインになっていて、そこから「8月」が採用されたんです。
そして数字の「2」の形がしゃちほこのシルエットに似ていること、さらに名古屋城の天守には金鯱が左右に2つ並んで乗っていることから「22日」になったそうです。
市章の由来と鯱の姿形、両方をかけ合わせた日付だったんですね。ちょっと洒落が効いてますよね。
制定したのは鍼灸接骨院を営む川村芳彦氏
この記念日を作ったのは愛知県名古屋市で鍼灸接骨院を経営している川村芳彦さんという方です。
お城の関係者や行政ではなく、地元で治療院を営む一般の方が発起人というのがちょっと意外だなと感じました。
目的としては
「名古屋城大天守に載る金のしゃちほこをもっと多くの人に知ってもらうこと」
そして
「金シャチにあやかって名古屋を元気にすること」
の2つが挙げられています。
加えて、この日に金のしゃちほこにまつわる人物や品物を紹介する記念イベントを行っていたことも、記念日制定の由来の一つになっているみたいです。地域おこしの意味合いが強い記念日なんだなと分かります。
金シャチの日が生まれた背景にある名古屋城の金鯱
ここでは記念日の主役でもある名古屋城の金鯱そのものについて掘っていきますね。金鯱がどれだけ特別な存在だったのか、歴史をたどると見えてきます。
1612年の天守完成とともに誕生
名古屋城の金鯱は、1612年(慶長17年)に天守閣が完成したタイミングで屋根に載せられました。
当時、史上最大級の延床面積を誇る天守だったそうで、その頂に金鯱を据えることで徳川家康の支配力や尾張徳川家の権威を示す目的があったといわれています。
大坂城よりもさらに大きな城を築くことで、徳川家の強さを見せつける意図があったという見方もあります。
ただ、これはあくまで当時の政治的背景から考察されている話であって、家康本人が明確にそう語った記録が残っているわけではなさそうです。
そこは少し憶測が混じる部分かなと思います。
実は、鯱を天守に据える発想自体は名古屋城が最初ではないんですよね。
織田信長が1576年(天正4年)に築いた安土城に、初めてしゃちほこが天守閣に据えられたとされています。
名古屋城の金鯱はその系譜を継ぎつつ規模と豪華さで頂点に立った存在だったという位置づけになりそうです。
使われた金の量が想像以上にすごい
金鯱に使われた金の量、正直ここまで多いとは思っていなかったので驚きました。
1612年当時の金鯱は高さ約2.74メートルで一対、慶長大判1940枚分に相当し、純金にして215.3kgもの金が使われていたとされています。
現代の金レートに換算するとおよそ10億円、当時の貨幣価値ではおよそ50億円前後になるともいわれているんです。
天守の屋根の上にそんな資産級の財宝が乗っていたというのは、ちょっと驚きですよね。
雄と雌の一対になっていて、北側が雄、南側が雌という配置になっているのも特徴です。
金鯱にまつわる知られざる歴史エピソード
ここでは金鯱がたどってきた数奇な運命について紹介しますね。実はこの鯱、平穏な歴史をたどってきたわけではないんです。
尾張藩の「金庫」として何度も改鋳された
金鯱はただの装飾ではなく、尾張藩の財政を裏で支える金庫のような役割も担っていたそうです。
藩の財政が悪化するたびに、鯱の鱗を作り直して金の純度を下げる改鋳が江戸時代に3度行われたといわれています。
純度を下げるたびに光沢が鈍ってしまい、最後には金網でその鈍った輝きをカモフラージュしていたという話もあるくらいです。
豪華絢爛の象徴だったはずなのに裏では財政のやりくりに使われていたというギャップ、けっこう人間らしいというか、生々しいなと感じました。
明治時代の博覧会出展と盗難事件
1871年(明治4年)、金鯱は政府に献納されて、雄鯱は国内の博覧会に出品されました。
さらに1873年(明治6年)には雌鯱がウィーン万国博覧会にも出品されたそうなんです。
日本の技術と美を海外に見せる役割も担っていたんですね。金鯱が再び名古屋城の天守に戻ったのは1879年(明治12年)2月のことでした。
そして1937年(昭和12年)1月には、雄鯱にある110枚の鱗のうち58枚が何者かに盗まれるという事件も起きています。
闇夜にまぎれて天守閣に登り、鱗を剥ぎ取っていったというなかなか大胆な事件だったみたいですね。
戦災による焼失とその後の復元
1945年(昭和20年)の名古屋大空襲で、金鯱は天守閣とともに焼失してしまいました。
長らく名古屋を見守ってきた金鯱が失われたというのは、当時の名古屋の方々にとって相当な打撃だったんじゃないかなと思います。
焼失した鯱の残骸は戦後GHQに接収されて、その後大蔵省に移り、1967年(昭和42年)になってようやく名古屋市に返還されました。
名古屋市はその残骸から金を取り出し、名古屋市旗の冠頭や金茶釜に加工して現在も保存しているそうです。
現在私たちが見ている金鯱は、1959年(昭和34年)の天守再建時に復元された、いわば二代目にあたります。
この復元された一対には88kgの金が使われているとのことです。
当初の215.3kgと比べるとかなり少なくなっていますが、これは戦後の資材事情なども関係しているのかもしれません。
ここは自分の見立てになりますが、当時の日本の経済状況を考えるとそれでも88kgの金を用意できたこと自体、名古屋市民の熱意の大きさを表しているように感じます。
名古屋のシンボルとして今も愛される金鯱
金鯱がどんな存在になっているのかを見ていきますね。
観光や地域文化への影響
名古屋城では天守そのものよりも金鯱の方が有名だとまで言われているくらいシンボル的な存在になっています。
城内にはまたがって撮影できるレプリカも設置されていて、観光客に人気なんだそうです。
名古屋城周辺には「金シャチ横丁」という飲食エリアもあって、金鯱の名前が地域の食文化の名称にまで使われているんですよね。
ここまで地域に浸透した記念のシンボルというのは、なかなか珍しいのではないかと思います。
名古屋城と金鯱が400年以上にわたって積み重ねてきた歴史の重みがあってこそ成立している記念日なんだなと改めて感じました。
まとめ
金シャチの日について由来から歴史まで整理してきました。ポイントをまとめておきますね。
- 金シャチの日は毎年8月22日で日本記念日協会に認定登録されている記念日
- 名古屋市で鍼灸接骨院を営む川村芳彦氏が制定した
- 日付は名古屋市の市章「まるはち」と、数字の2がしゃちほこの形に似ていることが由来
- 名古屋城の金鯱は1612年、徳川家康の権威を示すために設置された
- 当初の金鯱には215.3kgもの金が使われていたが、1945年の空襲で焼失
- 現在の金鯱は1959年に復元されたもので、用された金は88kg
金鯱の歴史を知ってから8月22日を迎えると、名古屋城を見る目がちょっと変わってくるかもしれませんね。
名古屋にお住まいの方も、旅行で訪れる方もこの日をきっかけに金鯱に注目してみてはいかがでしょうか。

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