この記事を読めば9月22日が「孤児院の日」と呼ばれるようになった理由や、その背景にある石井十次という人物の歩み、そして日本の児童福祉の始まりについてしっかり理解できます。
「なんとなく記念日があるのは知っているけど、由来まではちゃんと知らない」
という方、けっこう多いんじゃないでしょうか。
調べてみるまでは石井十次という名前もあやふやにしか知らなかったので、同じ感覚の方に向けて、できるだけわかりやすくまとめてみますね。
孤児院の日とはどんな記念日なのか
ここでは孤児院の日がいつ何をきっかけに生まれた記念日なのか、基本的な部分をまず押さえていきます。
9月22日に制定された背景
孤児院の日は、1887年(明治20年)9月22日に岡山県の医師である石井十次が、日本で最初期の孤児院とされる「孤児教育会」を岡山市の三友寺で創設したことにちなんで生まれた記念日です。
三友寺は岡山県岡山市中区門田屋敷にある寺院で、もともと岡山藩主の池田光政によって播磨国から移されたお寺なんですね。
その境内の一室を借りる形で、石井十次は孤児教育会の看板を山門に掲げました。当時、十次はまだ22歳。医師を目指していた学生でした。
石井十次と孤児教育会の誕生
十次が孤児教育会をつくるまでの経緯はなかなかドラマチックです。
当時岡山医学校(現在の岡山大学医学部)の学生だった十次は、療養を兼ねて邑久郡上阿知村の診療所に身を置いていました。
その近くにあった大師堂は、巡礼をする人たちの宿代わりになっていた場所だったそうです。
そこで出会った、夫を亡くして生活に困っていた巡礼中の母親から男の子を託されたことがすべての始まりでした。
その後もさらに子どもを預かることになり、自宅では手狭になったことから三友寺に移り住み、正式に孤児教育会という形をとったというのが流れですね。
孤児院の日の由来をさらに深掘り
ここを読むとなぜ4月ではなく9月22日という日付が記念日として定着したのか、その裏側まで見えてきます。
実はもう一つの「創立記念日」がある
ここ、あまり知られていないんですけど地味に面白いところなんです。
岡山市の公式資料によると、岡山孤児院の創立記念日は実は1887年4月20日とされているんですよね。
これは十次が大師堂で母子と出会い、男児を初めて引き取った日にあたります。
つまり「孤児院という活動そのものが始まった日」は4月20日、「孤児教育会という組織名で正式に発足した日」が9月22日という、二段階の始まりがあったというわけです。
私が思うにはこの二つの日付が並存していること自体、十次の活動が最初から明確な設立計画のもとに始まったわけではなく、一人の子を助けたい気持ちから徐々に形になっていったことを物語っている気がします。
三友寺という場所が持つ意味
三友寺は戦火に見舞われ、本堂などは焼失してしまったものの、山門だけは今も現存しています。
この場所こそ、日本の児童福祉の歴史における一つの出発点になったんですね。
個人的にはこういう歴史の現場が今も残っているというのが、なんだかじんとくるポイントだなと思いました。
石井十次はどんな人物だったのか
このパートでは孤児院の日の主役ともいえる石井十次の人となりや功績について整理していきます。
児童福祉の父と呼ばれる理由
石井十次は1865年生まれ、1914年に48歳で亡くなるまでの生涯で、生涯におよそ3000人ともいわれる孤児の父親代わりになった人物です。
医師の道を捨ててまで孤児救済に人生を捧げたことから「児童福祉の父」と呼ばれるようになりました。
日記には「孤児のため命を捨てて働かん永の眠りの床につくまで」という言葉を残しているそうで、この覚悟の強さが、単に慈善活動をしていたというより人生の目的そのものだったことをうかがわせますね。
岡山四聖人としての位置づけ
十次はアリス・ペティ・アダムスや留岡幸助、山室軍平とともに「岡山四聖人」と言われる人物でもあります。
キリスト教の信仰を背景に、貧困を根本から解決したいという社会的な使命感を持って活動していたとされていて、ただの同情心だけで動いていたわけではなさそうだなと感じます。
意外と知られていない「日本初」の真相
ここでは孤児院の日が「日本初の孤児院」の記念日と紹介されがちなことについて、少し踏み込んで整理してみます。
実は岡山孤児院より先に生まれた施設がある
孤児院の日を紹介するサイトの多くは「日本初の孤児院」として岡山孤児院を紹介していますが、厳密にはそうとも言い切れないんです。
1869年(明治2年)、大分県日田で初代日田県知事だった松方正義が「日田養育館」という児童保護施設をつくっています。
これは棄児や孤児、貧しい家庭の子どもを保護する施設で、近代日本において最初の孤児院と位置づけられているんですよね。
ただこの施設、日田の経済状況が悪化した影響で明治6年に閉鎖されてしまい、約4年間でおよそ360人あまりの子どもを養育した記録を最後に姿を消しています。
この「短命だった」という点が、後世に「岡山孤児院こそ最初」というイメージが広まった一因になったのではないかと、私は見立てています。
あくまで自分の考察です。
愛知育児院という存在も見逃せない
さらに、岡山孤児院ができる前年の1886年(明治19年)10月には愛知県で「愛知育児院」も設立されています。
名古屋の熱田伝馬町にあったお寺の境内から始まったこの施設は、実は日本で8番目の児童救護施設だったとされていて、岡山孤児院はこの1年後にほぼ同じ時期に生まれたことになります。
こうしてみると明治10年代後半から20年代にかけては、全国のあちこちで孤児や貧しい子どもを救おうとする動きが同時多発的に起きていた時期だったと言えそうです。
岡山孤児院だけが突出して特別だったわけではなく、その中で規模の大きさと石井十次という人物の存在感によって、後世に強く記憶される存在になったというのが実情に近いのかなと思います。
岡山孤児院のその後の歩み
ここを読むと、設からその後どんな形で発展していったのか、具体的な流れがわかります。
家族制度という独自の養育方法
岡山孤児院は最終的に最大1200人規模にまで拡大した一方で、十次は大規模な施設収容だけでなく「家族制度」という、少人数のグループごとに育てる方式や、里親のような形で子どもを家庭に託す取り組みも導入していました。
今でいう小舎制の考え方に近いもので大勢を一律に管理するのではなく、一人ひとりに寄り添った育て方を模索していたことがうかがえます。
宮崎県茶臼原への移転と晩年
その後、岡山孤児院は1912年(明治45年)に宮崎県の茶臼原へ移転しています。
十次はこの2年後、1914年に生涯を閉じました。
孤児院はその後名称や運営形態を変えながらも日本の児童養護の歴史に影響を与え続けています。
孤児院の日を通じて考えたいこと
この記念日を私たちがどう受け止めるべきか、という部分にも触れておきますね。
現代の児童養護施設とのつながり
日本では経済的な事情や虐待などによって親と暮らせない子どもたちのために、乳児院や児童養護施設、自立援助ホームといった制度が整っています。
こうした仕組みの原点をたどっていくと、石井十次をはじめとする明治期の人たちが手探りで築いた活動につながっていくわけです。
当時は「児童福祉」という言葉すらなかった時代に、目の前の子ども一人を助けたいという気持ちから始まった行動が、今の制度にまでつながっていると思うと、けっこう感慨深いものがありますよね。
私たちにできそうなこと
孤児院の日そのものは大きなイベントがあるわけでも語呂合わせがあるわけでもない、静かな記念日です。
だからこそ、この日をきっかけに児童養護の現状に目を向けてみたり、支援団体について調べてみたりするだけでも、十分に意味のある過ごし方になるんじゃないかなと思います。
まとめ
- 孤児院の日は1887年9月22日、石井十次が岡山市の三友寺で孤児教育会を創設したことに由来する記念日
- 岡山市の公式記録では、活動の実質的な始まりは同年4月20日、母子との出会いにさかのぼる
- 石井十次は生涯で約3000人の孤児にかかわり「児童福祉の父」と呼ばれた人物
- 厳密には1869年の日田養育館や1886年の愛知育児院など、岡山孤児院より先に生まれた施設も存在する
- 今の児童養護施設の仕組みはこうした明治期の手探りの活動が積み重なって形づくられてきた

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