9月17日は、かつて山形県に走っていた三山線が海味駅から間沢駅まで延伸し、全線が開通した日なんです。
この記事を読めばなぜこの日が記念すべき日なのか、そして三山線という鉄道がどんな役割を担っていたのかがわかると思います。
山形の鉄道史にちょっと興味がある方や、地元の記念日について詳しく知りたい方の疑問を解消できる内容になっていますよ。
三山線海味駅間沢駅間全通の日の概要
ここではこの記念日がいつ何が起きたことを指すのか、基本情報から押さえていきますね。
1928年9月17日に起きたこと
三山線海味駅間沢駅間の全通は1928年(昭和3年)9月17日に起きた出来事です。
当時の運営会社である三山電気鉄道が、すでに開業していた羽前高松駅から海味駅までの区間に加えて、海味駅から間沢駅までの区間を延伸開業させました。
これによって羽前高松駅から間沢駅までの11.4キロメートルが全線でつながったんですね。
個人的には山形の内陸部にこんな電化路線があったこと自体、あまり知られていない気がしていて、けっこう地味だけど重要な出来事だったんじゃないかなと感じています。
なぜ全通と呼ばれるのか
三山線はもともと1926年(大正15年)12月23日に、羽前高松駅から海味駅までの8.8キロメートルで営業を開始しています。
つまり最初は途中の海味駅までしか走っていなかったわけです。
そこから2年弱の期間を経て、間沢駅まで延長されたことで路線として完成した形になったので、この9月17日が全通の日と呼ばれているんですね。
開業から全通までの間に、鉄道免許状の追加取得なども行われていて、段階的に路線を伸ばしていった様子がうかがえます。
三山線とはどんな鉄道だったのか
ここを読むと三山線という路線がどういう目的で作られ、どんな性格を持っていたのかがわかります。
出羽三山への参詣輸送を目的に開業
三山線という名前は出羽三山にちなんでつけられたものです。
月山、羽黒山、湯殿山という修験道の聖地を総称して出羽三山と呼ぶのですがこの参詣ルートである六十里越街道を目指す旅客の輸送が、路線の大きな役割のひとつでした。
三山電気鉄道という会社は1924年(大正13年)8月17日に設立され、翌々年に鉄道運輸を開始しています。
ちなみに三山線は山形県内で最初に電気で走った鉄道路線だったそうで、直流600ボルトで全線が電化されていました。
鉱山からの物資輸送も担っていた
参詣客の輸送だけじゃなくて沿線にあった鉱山との物資のやり取りも三山線の重要な役目でした。
永松や幸生、高旭、見立、小山といった鉱山からは金や銅などの鉱産物が採れていて、特に西海味駅からは大量の鉱産物が三山線を通じて運び出されていたんです。
地域の通勤や通学に使う住民の足としての側面もあり、当時としては旅客と貨物の両方をバランスよく支える路線だったと言えそうですね。
参考:https://www.hotetu.net/haisen/Tohoku/100515yamagatasanzansen.html
海味駅から間沢駅への延伸背景
ここではなぜ海味駅止まりだった路線をさらに間沢駅まで伸ばす必要があったのか、その背景を掘り下げます。
延伸区間に含まれる駅と距離
海味駅から間沢駅までの区間には途中に西海味駅が置かれていて、海味駅から西海味駅まで0.9キロ、西海味駅から間沢駅まで1.7キロという構成になっていました。
全体としては羽前高松駅を起点に、新田、白岩、上野、羽前宮内、石田、睦合、海味、西海味、間沢という順で10の駅が並んでいたんですね。
間沢駅には車庫も併設されていて、三山電車庫と呼ばれる拠点になっていました。
間沢が終着駅に選ばれた理由
間沢は現在の西村山郡西川町にあたる地域で、当時は西山村と呼ばれていました。
この地域には出羽三山への玄関口としての性格に加えて、菊まつりの開催や間沢スキー場、海味スキー場、上野スキー場といった観光資源の開発が積極的に進められていたんです。
特に菊まつりの期間中は日曜日ともなればどの列車も満員になったというエピソードが残っていて、地域の一大イベントとして電車の需要を押し上げていたことがわかります。
自分の見立てではこうした観光開発の動きがあったからこそ、ただの鉱山輸送用の路線にとどまらず、間沢まで延ばす価値が十分にあると判断されたんじゃないかなと思っています。
あくまで推測ですけどね。
全通後の三山線が歩んだ道
ここを読むと全通してから路線がどう変化していったのかの流れがつかめます。
経営好調期と鶴岡延伸の構想
延伸を終えた後の三山電気鉄道は白岩発電所や沼山発電所といった寒河江川水系の水力発電による豊富な電力を背景に、比較的順調な経営を続けていたようです。
実際、鶴岡までの延伸が提案されるほど勢いがあったというのですから、当時の期待の大きさが伝わってきますよね。
実現はしなかったんですが、もし本当に鶴岡までつながっていたらと想像すると、なかなかロマンがある話だなと感じます。
戦時統合で山形交通へと社名変更
1943年(昭和18年)10月1日、戦時統合の流れの中で三山電気鉄道は高畠鉄道の高畠線、尾花沢鉄道の尾花沢線、それに山形県内陸地域の各バス会社を合併し、山形交通という社名に変わりました。
以降、三山線は山形交通の一路線として運行が続けられることになったんです。
この統合によって鉄道線は合計23.6キロ、バス路線は698.8キロという規模にまで拡大しています。
廃線と残る三山線の記憶
ここでは三山線がどのように役目を終え、現在どんな形で名残をとどめているのかを紹介しますね。
鉱山閉山とモータリゼーションによる廃止
戦後になると、線の鉱山が相次いで閉山し、加えて1960年代以降は自動車が普及していくモータリゼーションの流れも重なって、路線の業績はだんだん厳しくなっていきました。
そして1974年(昭和49年)11月18日、羽前高松駅から間沢駅までの全線11.4キロが廃止されることになったんです。
営業運転の最終日は11月15日で、16日には無料乗車会と閉業式典が行われたと記録されています。
約半世紀にわたって地域住民に親しまれてきた路線だったので、当時を知る方にとっては、なんとも寂しい出来事だったんじゃないかなと思います。
保存車両を後世に残す取り組み
廃線跡は現在、サイクリング道路や農道として大半が残っているそうです。
そして開業当初に活躍した木造車両のモハ103は、西川町にある月山の酒蔵資料館、設楽酒造店の敷地内で静態保存されています。
100年近く前に作られた木造車両なので老朽化が進んでいて、雪の重みで屋根がへこむといった状態だったそうですが、地元有志による三山電車保存会が2024年に修復のためのクラウドファンディングを実施しました。
目標金額は850万円で三山電車保存会の古沢勝広会長は「元々西川町は鉱山、木材、霊峰月山や出羽三山の参拝客、それらを運んでいたことを町民に今後も引き継いでいけるような電車であってほしい」と話していたそうです。
こうした取り組みを知ると廃線になっても地域の記憶として大切にされ続けているんだなと、なんだかじんとくるものがありますね🚃

まとめ
三山線海味駅間沢駅間開業全通の日についてポイントを整理しておきますね。
- 1928年9月17日、三山電気鉄道が海味駅から間沢駅までを延伸開業し、羽前高松駅から間沢駅までの11.4キロが全通した
- 三山線は出羽三山への参詣輸送と鉱山物資の運搬という二つの目的を持つ、山形県内初の電化鉄道だった
- 間沢駅周辺の菊まつりやスキー場開発が、延伸の背景にあったと考えられる
- 1943年に戦時統合で山形交通の路線となり、1974年に鉱山閉山とモータリゼーションの影響で全線廃止された
- 保存車両モハ103は現在も西川町の酒蔵資料館に残り、地元有志によって修復が進められている
こうして振り返ってみると9月17日という一日には、山形の内陸部で参詣客や地域住民、鉱山の物資までを支え続けた小さな鉄道の歴史がぎゅっと詰まっているんだなと感じます。

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