8月25日は「川柳発祥の日」なんです。
この記事を読めば川柳発祥の日がいつ制定されたのか、由来や関わった人物、そして現在にどうつながっているのかがわかります。
「川柳って俳句と何が違うの?」
「なんで8月25日なの?」そ
んな疑問を持っている方に、ちゃんと答えられる内容にしたつもりです。
学校の授業ではサラッと流されがちな川柳の歴史ですが実はけっこう奥深いんですよね。
江戸時代の庶民文化がどう花開いたのか、その始まりの瞬間を一緒に見ていきましょう。
川柳発祥の日はいつ制定された記念日なのか
まずは記念日そのものの基本情報から押さえていきますね。
8月25日という日付の意味
川柳発祥の日は毎年8月25日に定められている記念日です。
ただ注意したいのは、これは旧暦の日付だということなんですよね。
宝暦7年(1757年)の旧暦8月25日を現在の暦にそのまま当てはめて8月25日として記念日にしているという成り立ちのようです。
ちなみに旧暦の宝暦7年8月25日は、新暦に換算すると1757年10月7日にあたるという情報もあります。
厳密に新暦換算した日付ではなく旧暦の日付をそのまま現在のカレンダーに写した形の記念日というのは、日本の伝統行事や記念日にはわりとよくあるパターンだと思います。
川柳学会による制定
この記念日を制定したのは川柳学会だとされています。
川柳学会は川柳という文芸の研究や普及を目的とした団体で、江戸時代から続く川柳の歴史を後世に伝える活動をしているようです。
正直、制定された具体的な年や制定の経緯についての一次資料までは今回見つけられなかったので、この点はあくまで各種記念日サイトの情報をもとにした記述になります。
制定年が明記されている公式な発表文書は探した範囲では確認できませんでした。
川柳発祥の日の由来となった出来事
ここではなぜ8月25日が川柳発祥の日とされているのか、その核となる出来事を掘り下げます。
柄井川柳が万句合を興行した日
川柳発祥の日の由来は宝暦7年(1757年)8月25日に、前句付けの点者だった柄井川柳が最初の万句合を興行したことにあります。
万句合というのは選者があらかじめ前句のお題を印刷して配布し、それに対する付け句を広く募集、集まった句の中から優れたものを選んで再び印刷して配るという、いわば大規模な句会イベントのことです。
今でいうコンテスト形式の投句企画みたいなものですね。当時としてはかなり画期的な仕組みだったんじゃないかなと思います。
柄井川柳は当地(現在の東京都台東区蔵前、旧浅草新堀端の天台宗龍宝寺門前)の名主で、宝暦5年(1755年)に家業を継いで名主になった人物です。
俳歴については宝暦7年より前の詳しいことはあまり分かっていないみたいで、はじめは談林派俳諧の点者だったとも言われています。
無名庵川柳と号してこの日に最初の万句合を開いたことが、のちの川柳隆盛の礎になったわけです。
なぜこの興行が発祥とされるのか
不思議に思う方もいるかもしれませんが川柳という言葉自体、実は柄井川柳という「人物の号」からきているんですよね。
この万句合以降、柄井川柳は月に3回、5のつく日(5日・15日・25日)に定期的に句合を興行するようになりました。
宝暦12年(1762年)10月15日の句合では集まった句が1万句を超えたという記録も残っていて、当時の人気ぶりがうかがえます。
この継続的な人気と定着があったからこそ、最初の興行日である8月25日が発祥の記念日として選ばれたのだろうと考えられます。
川柳という文芸が生まれた背景
由来を理解するには川柳のもとになった文芸の仕組みを知っておく必要があります。
前句付から独立した経緯
川柳のルーツは「前句付」という遊びにあります。
連歌や俳諧連歌は本来なら発句から始めて参加者が順番に句をつないでいく集団文芸なんですが、前句付はその逆で、まず七・七の下の句(お題)を用意して、それに対する五・七・五の上の句を参加者が考えて技巧を競うという形式でした。
もともとは七・七の題に対する付け句という位置づけだったものが次第に七・七を省略して五・七・五だけで意味が通じる「一句立ち」の句として独立していったんです。
この一句立ちの句が選者だった柄井川柳の名にちなんで「川柳」と呼ばれるようになったというわけですね。
誹風柳多留の刊行が果たした役割
川柳という呼び名が定着する上で決定的だったのが明和2年(1765年)に刊行された句集『誹風柳多留』だと思います。
これは柄井川柳が選んだ膨大な付け句の中から、呉陵軒可有(ごりょうけんあるべし)という人物が特に優れた作品を選りすぐり、編集して出版したものです。
史上初めて前句をすべて省いた前句付集だったとされていて、この刊行によって川柳万句合の人気がさらに高まり、柄井川柳は他の点者を圧倒して江戸で第一の点者になったといいます。
明和2年から天保11年(1765〜1840年)までの間に、なんと167編も刊行され続けたそうです。
ただ、後半になるにつれて選句の仕組みが曖昧になっていって天保11年までの9年間だけで55編が粗製濫造されたという指摘もあるので、人気の質が徐々に変化していった側面もあるみたいですね。
柄井川柳自身が編纂に携わった24編までは特に評価が高いとされていて、逆にいうと本人が関わらなくなってからのクオリティにはばらつきがあったということなんだと思います。
33年間で柄井川柳が選んだ句の総数は260万句にものぼるという驚異的な記録も残っています。
1日あたりに換算するとかなりの数になりますよね。
正直この数字を見たとき、江戸の庶民がどれだけこの文芸に熱中していたのかその熱量が伝わってくる気がしました。
川柳発祥の地に建つ記念碑
由来を裏付ける現存の証として実際の記念碑についても触れておきますね。
台東区蔵前に建立された碑
柄井川柳が最初の万句合を興行した場所の推定跡地には、「川柳発祥の地」と刻まれた碑が建っています。
所在地は東京都台東区蔵前4丁目37、三筋二丁目交差点の南東角です。
この碑は平成19年(2007年)、つまり川柳発祥から250年の節目にあたる年に、川柳250年実行委員会によって建立されました。
除幕式が行われたのも8月25日だったそうでまさに記念日と同じ日を選んで式典が開かれたことになりますね。
碑文には「宝暦7年(1757年)8月25日、当地(旧浅草新堀端天台宗龍宝寺門前)里正柄井八右衛門、無名庵川柳と号し、初めて万句合を開巻す」という一文が刻まれていて、この場所こそが川柳という文芸の始まりの地であることを今に伝えています。
建立にあたっては文化庁や東京都、台東区も後援していたようでただの地域イベントというより公的な意味合いも持った記念事業だったことがうかがえます。

柄井川柳の墓所と川柳寺
柄井川柳は寛政2年(1790年)9月23日に亡くなっていて、辞世の句は「木枯らしや跡で芽をふけ川柳」だったと伝えられています。
墓所は碑の近くにある台東区の龍宝寺で、この寺は通称「川柳寺」とも呼ばれているそうです。境内には柳祖である柄井川柳、2世、3世の川柳の墓碑が並んで建っているとのことでした。
ちなみに2世・3世川柳は柄井川柳の息子が継いだものの、4世以降は社中の中から宗家として選ばれるようになったという継承の流れがあります。
現在まで川柳の号は代々受け継がれていて、令和のいまも東京川柳会という結社を通じて18世川柳宗家まで続いているそうです。
250年以上前に始まった文芸が、名前と精神を受け継ぎながら今日まで続いているというのはなかなか感慨深いものがありますね。
まとめ
川柳発祥の日についての由来や歴史を振り返ってきましたが要点を整理すると以下のようになります。
- 川柳発祥の日は毎年8月25日で川柳学会によって制定されたとされる記念日
- 由来は宝暦7年(1757年)旧暦8月25日、柄井川柳が最初の万句合を興行したこと
- 万句合は前句のお題を配布し付け句を募って優秀作を選ぶ大規模な句会イベント
- 前句付から七七を省略した一句立ちの句が「川柳」と呼ばれるようになった
- 明和2年(1765年)刊行の『誹風柳多留』が川柳の人気を決定づけた
- 東京都台東区蔵前には平成19年建立の「川柳発祥の地」の碑がある
- 柄井川柳の墓所は近くの龍宝寺(通称・川柳寺)にあり号は現在まで受け継がれている
普段何気なく目にする川柳ですがその始まりには江戸の庶民が熱狂した大規模な句会イベントがあったんですね。8月25日にこの由来を思い出しながら、一句ひねってみるのも楽しいかもしれません。

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